易者の履歴書 その2
みなさん、こんにちは。
さて、前回「易者の履歴書 その1」では、易者が夢の中での「未来予知」というような奇妙な能力に悩み、大学生になってこの能力が何なのかを調べていた際に、東洋経済史の授業で「易」のことを知った、という下りまでお話ししました。
今日はその続きです。
アカデミズムと占い
大学の授業で、こうしたお話が出る、ということは私には新鮮な印象を与えました。
一般的に、前回もお話したように、日本の大学では文科系でも「科学」に基づいて講義がなされています。
「科学」というものは、原因があって、結果がある、という因果律でなりたちます。
そこでは、「占い」なんてものは、この「原因と結果」では実証できないものですから、そんなものが出てくること自体、大学っていうところじゃ、通常は「絶対タブー!」なんですよね。
もっとも、これは、東洋経済史の一環としての、中華世界の根底に流れる伝統文化を説明する上でのアイテムの一つとして行われた授業だったわけですが、実は大学っていうアカデミズムとしては、けっこうギリギリの線ではあったのだろうと思います。
しかし、非常に興味深いものでした。
大学の授業で、こうしたお話がなされるとは思ってもいなかったからです。
大学の授業は、堅いものが多く、知的好奇心を満たすという点では、私には退屈なものが多かったのです。
アカデミズムというスタンダードだけでは、世界には説明ができないことが多すぎる、という思いを常日頃私は抱いていましたから。
そんな中、自分の密かな関心である分野に触れている内容に、まさか出会えるとは思ってもいなかったのです。
この時、私は多くの情報を得ました。
・中華世界では、道教、儒教共に、易経を根本経典としていること。
・易は占いの書であるが、今も実際に使われており、中国や台湾の財界人でもこれを用いている人は少なからずいる、ということ。
・1、0、の二進法で表される易の世界は、コンピュータサイエンスの基本にもなっていて、実はこの二進法があれば、言語も含め複雑な情報を伝達することが可能であること。
・ニールス・ボーアの理論の発想が、易の研究から来ていること。
※これは、本当の話です。
ボーアは、ノーベル賞受賞にあたって、自分の紋章を易の太極マークに変更しています。
・易の原理は、科学では立証が難しいが、C.G.ユングのチームは、シンクロニシティ=共時性から説明を試みていること。
・遺伝子ゲノムのトリプレット構造と易が示す「卦」は、まったくシステムとしては同じ原理をもっていること。
さらには、その易の筮竹による占い方までも、授業では解説していました。
私は、話を聴きながら思いました。
・・・自分は、夢で未来世界で起こることを「知る」と思われることはよくある。
それは、科学では実証ができないことなのだが、現実に夢で見たシチュエーションがまったくそのまま現実で起こるということは、自分の場合は、確かにある。
それは、シンクロニシティということで説明ができるのかもしれないが、偶然のように見えて、世界は相互に関連性をもっているのかもしれない。
・・・ならば、易というのも、それで未来を知る、という点では似たようなものがあるのかもしれない、と。
最初の易占い
私は早速、書店に行き、授業で先生が参考文献として掲げた、本田済(わたる)さんの著作で朝日新聞社が発刊していた朝日文庫の「易(上)(下)」と、岩波文庫の高田真治さんと後藤基巳さんが訳を行っている「易経(上)(下)」を買い求めました。
また、自分でこの占いをやってみるには筮竹も必要だと思ったので、模型などを売っているおもちゃ屋に行き、竹ひごを50本買い求めました。
そして、夜、アパートで自分で易経の占いを初めてやってみたのですが、その時は今後自分がどういう道に進んだらよいのか、というようなことを占ってみた記憶があります。
出たのは、「小畜」だったと記憶していますが、さて、どんな事が書いてあるのだろうと、ドキドキしながら易のページをめくりました。
・・・しかし、なにやらまったく書いてある意味はわからず、ちんぷんかんぷんでした。
易は、本田さんの本も、岩波のものも、学者さんが書いていますから、専門的な解説でわかりづらいということもありましたけど、それ以前に、独特の用語が出てきますから、その意味がよく分からず、理解が難しかったのです。
また、学者さんの本ですから、学術的な古来の解釈のこととか、歴史的な照合性とか、そういうことの解説が多く、日本人で一介の薄っぺらい教養しか持ち合わせていない、当時のスタンダードな学生に過ぎぬ自分には、それを自分の身に置き換えることができなかったんですね。
あーあ、せっかく買ってみたのに、これじゃやっても意味がわからないなあ、と落胆しましたが、しかし少し思い直しました。
・・・そうだ、こういうものは、事あるごとに、占ってみたらいいんじゃないか?
今はちんぷんかんぷんだが、数をこなせば、ちっとは分かるようになっていくだろう。
ということで、その日から、迷うことがあるごとに、易で占ってみました。
当時の私は、悩みなどいくらでもありましたから。
就職活動をやって、内定をもらった銀行に行くことに、なにか自分自身の内部から「絶対ダメ!」といった予感があって、断ってしまっていましたから、改めて自分が生きていく方向性を決めなければなりませんでしたし、当時交際していた女性ともなかなかうまくいかなかったりもありましたし、実家関係の悩み事もありました。
今にして思うのですが、実は易という書物については、これが正しい「読み方」だと思います。
通常の書物は、A to Zで読むべく構成されています。
しかし、易については、そうではありません。
個々の表象が、羅列的に書かれているため、本来、体系的に読み通す種類のものではないのです。
また、その内容というのも、「象徴」として描かれています。
象徴は、接する人により無限の意味を描くものです。
自分に関することを占う中でしか、これら象徴の基本的な意味というものも理解することは困難だと思います。
結局のところ、易に関しては読み方があるとすれば、それは最初から前提としてまずは自分のことを占ってみる、ということでしか読みえないものだと思われます。
さて、そういうことを占ってみる中で、途中から筮竹を使うのは集中力を持続させることがなかなか大変なので、コインを投げる擲銭法のほうがやりやすいことにも気づきました。
筮竹には簡易法もありますが、一件占おうとすれば、少なくとも20分から30分はかかってしまいます。
その点、コインを投げるやり方は、短時間の集中でできますし、結果がよく分からない場合は、タバコを吸って考えを整理して、もう一度問うてみる、ということもできますからやりやすいのです。
半年ほどこれをやってみて、少しだけ分かってきたのは、・・・どうもこの易の占いというやつは、未来の吉凶を示すというよりも、自分自身の現在の内面状況だとか、生き方の方向性とかを「反映」しているものではないのかなあ?
ということでした。
易の占いは、自己投影?
「占い」ってことをみなさんは、どういうものだと考えますか?
一般的には、それは吉凶判断です。
最初に書きましたように、たとえばおみくじを引いて、「大吉」が出ればうまくいく、「凶」ならばマズいことが起きる、というのが一般的な占いです。
朝の新聞やネットの12星座占いを見て、その日の運勢が吉か凶か?というようなことは、そもそも最初に確定した「結果」だけがありますよね?
それに一喜一憂するのが一般的な「占い」というものなんです。
が、易の場合はどうもそういうものではなくて、むしろ易で占って出てくるのは、今の自分の投影で、自分の現状の内面を暗示させるような内容と、そのままで行った先の結果予測としての吉凶判断が示されているのではないのかな?と、毎日やってみるにつれてだんだん思うようになっていったんですね。
これだと、易でいう「占い」とは、むしろ「自己の投影」というほうが適切です。
少しずつ、用語の意味がわかってくるにつれて、この観察は正しいのではないか?と思うようになっていきました。
非常に不思議なことなのですが、集中した環境で、なにかを問う場合、易はかなり適切に今現在の自分の状況を示すような象徴を出します。
もちろん、それがどのようなメカニズムで発生するのか?については、科学的な説明というものはしてみようもありません。
しかし、偶然であるにせよ、ここに今の自分と易の象徴との関連性がかなりの頻度で起こってくるということは、帰納法的には無視できないことのように思われました。
そしてなんだか、そういう意味ではどこか、自分がこれまで経験してきた、夢の中の未来予知と、近いものがあるのを確信的に感じるようになったのです。
ちょうどこの頃、私は易と並行して、東洋経済史の授業で先生が易経のメカニズムとして話をしていた、ユング心理学の「シンクロニシティ=共時性」という考え方にも興味を持ち始めていました。
シンクロニシティの考え方
シンクロニシティというのは、かなり大雑把に言うと、偶然ばったりと出会うことが、その時その時において重大な意味を持つとした場合、・・・そこには必然的な関連性や繋がりがあるのではないか?という仮説です。
たとえば、道でしばらく会っていなかった知り合いとバッタリ会って、話ついでに酒を飲みに行ったら、相手が今抱えている仕事の話をして、ちょうどだれか探してたから、お前がやんない?ということになって、そんなのをやるうちにそれが正式な仕事になっていくとか、こういうのを私らは「偶然の出会い」ともいいますが、それはまた「決定的な運命の出会い」でもあります。
たとえば、スキー場なんかでたまたま知り合った男女が、その後もお付き合いすることになって、その後、結婚して家庭をもつことになるとか、そういうことってそこら中にあることなんですけれど、これって「偶然の出会い」だけど、その後の人生を決定づける「運命の出会い」ですよね?
私たちは、全員が基本的には自分の自由意思で、好きなように行動して生きています。
そうする中で、たまたまのことがきっかけで出会いが発生し、そこから自分の人生ってやつが形成されていくんですが、後から考えたら、その出会いはたまたまだけども、まるでその出会いが「意志」をもってあの日あの時あの場所での出会いを導いたことで、その先の未来が作られていくんじゃないか?っていうようなことを感じたことはありませんか?
そもそも、人間世界は、「生まれる」ときからしてたまたま、両親の遺伝子をもって生まれてきます。
出会いというのも、そのほとんどは「たまたま」なんですが、それらの「たまたまの偶然」で人生というのは作られていくのですから、これは当たり前だとしても、ふと考えたらなんか不思議なことですよね?
話を戻しますが、授業で易と関連付けてシンクロニシティという概念を知ったので、ちょうど易の研究を始めたころから、私はユング心理学も改めて学ぼうと思いなおすようになりました。
この偶然の出会い=シンクロニシティというのは、その背後に、すべてのものがつながっている無意識の世界みたいなものがあって、必要な時に大きなこの無意識の塊の中から、必要な者同士が引っ張り合って、影響を与え合い、偶然にも思われる運命の出会いという現象は出てきているのではないか?とユングは考えています。
この、易とか夢の世界にもつながる、すべてが繋がった領域、膨大な情報の本体のことをユング派では「集合無意識」という表現をしています。
つまり、コンピュータサイエンスではホストサーバーにあたるような領域が、人の意識の底にはあるのではないか?
そしてそこからのアクセスにより一見、偶然と思われるような出会いだとか、予兆とかといったものが出てきているのではないのだろうか?
と、これがユングの考えるシンクロニシティ=共時性というやつだということを知りました。
ユングは、易については非常に強い関心を持っており、シンクロニシティの仮説と絡めて多くの言及を行っています。
どうやらユングは易の占いを、まったく無作為に筮竹を分けたり、コインを放る、という「作業」をする中で、このすべてがつながったホストサーバーのような「集合無意識」の領域にアクセスする方法の一つだと考えているようでした。
私が夢で「未来予知」のようなものを頻繁に見る、というのも、夢が無意識領域からくるものであることを考えると、これは易と同じ、無意識世界の「サーバー」のようなものとのアクセスからきている、という可能性はあります。
ユングの考え方はとても面白くて、私の易に対する観方と理解を大きく前進させるきっかけとなりました。
そうしたら、似たような「無作為の作業」から他にも無意識世界にアクセスする方法はあるのではないか?と考えた私は、タロットカードも買ってきて、研究を始めました。
タロットカードの場合は、象徴を示すカード枚数は少なく、絵でいろいろなことが象徴されるし、大アルカナといわれる絵札22枚でも占ってみることができるので、膨大な量の情報が漢語で書かれた易よりも分かりやすく、手軽だったのです。
この、タロットカードの研究は、その後の私の「象徴」に対する考え方を飛躍的に拡大させてくれました。
しかし、易もタロットも、まだまだ「お遊び」のような感じでした。
・・・これが、一気にユング心理学も含めて、深い理解を得るようになるのは、私が二十代後半に差し掛かって、仕事を辞めて生きる目的を見失い、フラフラすることになった「ある一年」が大きく関係しています。
端的に言うと、どう生きていくのか道に迷ってしまって、自分でもどうしたらいいんだか、完全に分かんなくなってしまっていた一年があったのです。
なんかだんだん長くなってきてしまっていて、こんな話を続けるとまだかかりそうです。
ちょっと、他のことも書きたいので、続きはまた次回にしましょう。
退屈な方は、飛ばしてください。