易者の履歴書 その3
「易者の履歴書2」までで、易者が易経占いを始めたころの話まできていました。
続きです。
「象徴」とはなにか?
さて、易経の結果で出てくる「卦(か)」や「爻(こう)」に示されるようなことは、「象徴」というものです。
象徴とは「シンボル」とも言いますが、浅い意味では、「ものごとを指し示す別の形体の記号」という意味になります。
たとえば、国旗とか社章といったものは、こうした意味での国や会社の象徴です。
しかし、易の象徴や、タロットカードの象徴といった場合は、また少し広い意味での象徴となると思います。
たとえば、タロットカードで大アルカナ0番の「愚者」というカードがあります。
基本的には、「財産も持たずに放浪する若者」という図象なのですが、ここからいろんなことを人は自由に連想します。
無責任?
自由?
失業?
旅?
若さ?
希望?
不安?
実は賢者?
崖っぷち?
・・・などなど。
つまり、象徴というのは、広い意味合いだと、「見るもの、触れるものに無数のイメージをかきたてさせるような表現」ともなるのですね。
ある象徴から、なにを感じるかは見る人のほうに答えがあるのであって、象徴自体は同じであっても、触れる人の人生経験ですとか性格、バックボーンによりとらえられる意味合いは無数です。
絵画や詩、書などは、特に象徴性の強いものです。
見るもの触れるものに、より深い連想を呼び起こすことができる象徴性を帯びたもののことを、私たちは「芸術」と呼びます。
どのような、そしてどれだけの連想の広がりを醸し出すことができるか?が、芸術というものの基準といっても言い過ぎではないと思われます。
夢と象徴と共感覚
私、易者が、幼少期より「未来予知」のような夢を見ることで悩んでいたのは、他の人はそのような夢は見ないというので、
・・・それでは、自分は、ビョーキじゃないのか?
という恐れを感じていたからでもありました。
しかし易やタロットカードの研究や、シンクロニシティの考え方を知るにつれ、夢もまた単なる未来予知などではなくて、象徴言語でなにかを伝えるものではないのか?
という仮説が私の中に湧き上がっていました。
そして、自分はどうもその影響を人よりも強く受けてしまっているようだ、と。
それは、今だからわかるのですが、私が共感覚者であったからです。
音楽が映像や色彩と変換されてしまったり、数字が人に見え、人に特定の数字が見える、というような「変な」感覚を持っているものですから、たとえば夢を見るとしても、それは抽象絵画のようなものも多く、そこからさまざまなことが連想され、悩んだりもするのです。
象徴に対するある種の過敏反応が起こっているような状態のわけですので、ある意味、他の人たちから見たら、おかしなことを突然言い出す複雑怪奇な人間に見えていたのは間違いないと思います。
ですが、一方で私はどこかでそれを認めたくないというか、そういう特殊性は社会性とは無関係なのだから、社会ともちゃんと接点をもって、フツーに生きていきたい、という願望はありました。
しかし、かなり無理をしていたのだと思います。
人間は、その時その時で自分と状況との「折り合い」をつけて生きていくものです。
当時の自分は、その「折り合い」として、非常に変わり者の社長の弟子として、奇妙な出版社に就職するということでなんとか自分の身の置き所を探そうとしていたのだと思います。
破たんと転機
しかし、27歳のころ、私には大きな転機が訪れます。
・・・すべて、イヤになってしまったのです。
自分のしていることのなにもかもが、です。
働いていた出版社が、それほど劣悪な環境であったわけでも決してありませんでした。
社長をはじめ、いろいろと気を遣ってくれて、多くのことを教わったと思います。
にもかかわらず、自分が、常に周りの目を恐れて自分を繕っているんではないか?とか、本を作る仕事なんていっても、しょせんはウケがいいことをあげつらっているだけではないのか?とか、いろいろな疑問がそれまで累積していたのが一気に爆発したような状況になってしまい、仕事をできなくなってしまったのです。
年末に出版社を辞めたあとは、なんだかすべてに疲れてしまったようで、寝てばかりいました。
これは、非常に深刻なことでした。
なんだか、これまでその場その場の「折り合い」で済ませていたことが、自分の内部から発生した巨大なるなにかによって吹き飛ばされ、自分の中で実現されたがっていたあらゆるものが姿を現し、自分でもそれをどうしたらいいのかが分からなくなってしまったのです。
長らく恐れていたことがついに発生した感覚もありました。
「鬱病」というならば、そうなのかもしれなかったのですけれど、少し一般的な鬱病とも違っていました。
ある種の、「共感覚の爆発」のような状態だったからです。
こんな事をしているわけにはいかない、働かなければ、と思い、面接を受けに行ったりもしましたけれど、面接担当の表情やしぐさや片言から、相手の性格や真意が言葉で聞くまでもなく分かってしまうような気がして、面接を受けている間にシラけてしまうのです。
当然、採用面接など行くところ行くところすべて不採用です。
テレビが観れなくなりました。
テレビに出ているタレントたちのシナリオが見え透いてしまうような気がして、バカにされているような気がして失望的な気分になってしまうのです。
ドラマでも歌番組でも、無理に観衆を「彼ら」が意図することに従わせようとする思惑が見えてしまうような気がして、見ていられなくなってしまったのです。
どれだけ伝わるかわかりませんが、説明しようとするならば、言葉として入ってくる情報と、言葉以外から伝わってくる情報のあまりの落差に呆然となってしまう、といった状況でしたから、これは、これまでは自分の中に存在していることは知っていても、自分の社会的な背景のさらに奥にに押しやろうとしてきた私の共感覚が、逆襲を始めているような感覚でした。
当然、夢もまたおそろしく活性化し、わけのわからないイメージを見せるようにもなりました。
「たまに、未来予知の夢を見る」というようなものではなくて、眠るとまったく別世界、あるいは自分のもう一つの並行世界にいるかのような強烈な夢を見るのです。
あまりにもイメージが強烈なので、夢日記をつけてみるようになりました。
そうしたところ、夢はさらにハードになっていって、私は次第に強い自己嫌悪に陥るようになりました。
やがて眠るのが怖くなり、起きれるだけ起きているようになりました。
当然、そんなことをすれば昼夜逆転します。
社会的に見たら、最悪の悪循環ですよね。
私は、なんだかすっかりダメになってしまっていたのです。
出奔、そして・・・不思議な邂逅
そんな日々を続けていくうちに、次第に、
「自分の内面で起こっていることを、誰かに伝えることは不可能だ。
俺は誰にも理解されないだろう。
頭が狂っているのかもしれない。
なんという孤独。
・・・もしかすると、自分はこの世界に不要ではないのか?
存在してはならないのではなかろうか?」
などと物騒なことを考えるようになっていきました。
そして、10月の末、とうとう私はどこかで消滅してしまおう、と思い、出奔してしまいます。
本気でした。
本気で、有り金全部を預金から引き出し、長野方面に向かう電車に飛び乗ったのです。
・・・が、失敗します。
死にきれなかったのです。
死ねぬまま、私は自分の住んでいた街へと帰ってきてしまったのでした。
しかし、このような自分が現実世界に戻れるだろうか?と考えると不安でいたたまれず、アパートに帰るのがとてもためらわれました。
・・・ああ、なんということだ、自分はどうしたらいい?
と駅を出た後、ロータリーの前で呆然と立ち尽くしていると、不意に大学時代の同級生の女の子が現れて、会話を交わすうちに食事に行くことになりました。
二人で歩いていると、近所のこれまた当時唯一親しくしていた友人が不意に現れて、彼も一緒に三人で居酒屋に行くことになりました。
・・・これは、不思議な出来事でした。
私は彼らに、自分が死のうと思っていることなどは、なにも伝えていません。
偶然です。
しかしあの日あの時あの場所で、偶然に彼らが現れた、ということは、私にはどうしても単なる偶然と言い切ることができませんでした。
私にはこれが偶然だけで片付けられない、いわばユングが提唱しているシンクロニシティそのもの、なにやらとてつもないことが今まさに起こっているように感じられたのです。
これは、なにげないことなのに、非常に大きな出来事だったのですね。
そして、思いました。
「・・・世界は、繋がっているんだ。
本当に、人間はどこかと繋がっているのを、俺はもう疑わない。
今は、自分自身、こんな状況だけれども、自分は確かに、大きなつながりの中にいる。
本当に必要なことは、伝わり合い、必要な人や物事とまたきっと出会っていくのだろう。
もう、自分が隔絶された状況で世の中と折り合いがつかないとか、考えるのはやめよう」と。
ユング・易の本格的な研究が始まる
それから数か月は、私はこれまで上っ面しか読んでこなかった、ユング心理学の本を大量に読んで過ごしました。
人文書院が出している「ユングコレクション」は、ほとんどすべて読みました。
自分が直面している共感覚の暴走、夢の暴走といった現象は、ふつうの心療内科や精神科、あるいは臨床心理士などに相談しても解決はつかなく思われていましたが、どうもC.G.ユングは、私のようなクライアントをかなり専門としていたようで、そこにはほとんど私自身と思われる例とその考察が膨大な量、書かれていました。
「心理学と錬金術」というユングの著作は、中でも私には決定的な影響を与え、今に至っています。
ふつうの学生が読もうとしても、おそらくはほとんど意味が理解できないような、人間の内面にある象徴とその起源にまつわるお話です。
学生時代には難解で読めなかったユングの著作物でしたが、私は当時、まさにユング博士の患者のようになってしまっていたから、これがすんなりと読めたのだと思いますが、これは私自身に起こってきているさまざまなことについて、大きな理解と洞察を与えてくれたと今も思っています。
同時に、それまで書いてきた夢日記の内容というものが、少し分かるようになってきていました。
夢は、無意識という自分自身であって巨大な集合体のような領域でもある不可解なところから、象徴言語で伝えられるメッセージです。
中には、明らかに未来を警告するような内容もありますが、夢の多くは、あちらが私に対してなにかを教えようとするものであることに、私は気づき始めたのです。
その伝えたがっている内容から目を背けるのではなく、話を聴くことでのみ、無意識との対話や協調は成立します。
対話を試みるようになってから、私の夢は大きく内容が変化していきました。
さらに、私はこれまで遊び半分でやっていた易というものを、自分自身との対話という目的のために用いるようになっていきました。
夢は自分自身が寝ている間に見るものです。
しかし、易は起きている状態で、今の自分の置かれている状況や、内面での本当の願望や現状を垣間見せてくれるものであることを、私は疑わなくなっていきました。
今もそうなのですけれど、私は自分の方向性に迷いや疑いを感じるときは、一人で易を何度も占ったりします。
これは、自分自身が知ってはいても気づいていないことや、隠ぺいしていることをつぶさに垣間見せてくれます。
それは、夢がそうであるように驚くほどの示唆に富んでいると思います。
現実世界に戻る
やがて、私のそれまでの呪縛は自然と解消するにいたり、私はとりあえずはアルバイトで働き始めました。
夢の未来予知や共感覚がなくなったわけではありません。
共存するように変化していったのです。
世界は、すべてが繋がり合っていて、必要なものは向こうからやってくるもの、自分がこうあらねばならない、ああでなければならない、などと無理をしなくても、大きな必然性の中ですべては動いている、と感じられるようになってきて、私は無理なく来るべきものを受け入れていこう、という考え方に変わっていったのです。
自分の特殊な能力というか性質についても、それは多くの情報を自分に与えてくれているもの、他の人にはこうした感覚のことはわからないかもしれないが、自分はそれで多くのことを知ることができるのだ、ということで納得ができるようになっていきました。
こうしたことはユングの著作物の影響もあります。
が、考えてみると易経が占いということを通して目指す人間の在り方というのは、こだわってはいけない、自分を常に、どの方向から何が来ても、限りなく柔らかく、どの方向にでも自在に動けるようになりなさい、というものです。
易経を、自分に関する問いかけで占いながら読んでいくと、この書物は究極的には人間をこうした状態に導くために書かれているのではないか?と思われるようになります。
これを道教や儒教が「中庸」と呼ぶのですが、その感覚というものを、ダメになった一年を通して知ったということは、非常に大きなことです。
そうして働き始めたアルバイト先では、また多くの貴重な出会いがありました。
そうするうち、私の運命は向こうからやってきました。
焼鳥屋で知り合った社長からスカウトされ、まったく関係がなかった食品関係の世界に入り、営業販売を行いつつ全国を渡り歩くようになったのです。
そして、これまた運命なのでしょうが、台湾に渡ることになりました・・・。
まただいぶ長くなってきていますので、続きはまた次回にしたいと思います。