易者のブログ

みんなの易経占い!

易者の履歴書 その1 

易者としての履歴をご紹介しておくことは、連載を続けるにあたって重要だと考えます。

易者としての履歴をご紹介しておくことは、連載を続けるにあたって重要だと考えます。

個人的な背景

改めて「易者のブログ」を連載していくにあたって、少しみなさんには説明しておいたほうがよさそうなことがいくつかあるのですけれども、・・・そもそも、どうして易者本人は、こういう古典的占いである易に詳しく、研究などしてきているのか・・・?
というあたりは、少しお話しはしておいたほうがいいような気がします。
易者としてのIDは、明確にしておきたいのと、また「占い」などというと、多くの誤解も生じます。
狂信的な人間でないのか?とか、ヤバい活動をしているんじゃないか?とか、思われることもある領域であることは、よく理解しています。
でも、私はそのような誤解とはおよそ正反対の人間で、狂信というような方向とはおそらく最も遠い人間であると思っています。
でも、誤解も受けがちであることから、あらかじめ、誇張のないところで易の研究をしてきた経緯はお話しておいたほうがいいと思われるからです。

幼少期からの悩み

まず、私は迷信だとかゲン担ぎとかは一切やらない人間です。
正当に社会科学を学び、科学的な思考のもとでこれまで生きてきましたし、今も生きています。
商売の世界に長らく携わってきましたが、ノーマルな感性で流通業界と取り引きしてきましたし、仕事ではいっさい易の話などはしたことはありません。
実家は数百年来の浄土真宗の家ですけれど、私自身は無宗教といってよく、なにか特定の宗教を信仰しているわけでもありません。
ある意味、こうした「占い」とは縁遠いような人間です。

そんな私が、「未来を占う」ということを、マジメに研究するきっかけというのは、極めて個人的な理由です。
あまり人に話したことはないですが、私は実は幼少時から奇妙な能力がありました。

・・・夢の中で、近日起こることが事前に分かってしまうということがよくあったのです。

幼少期から、夢で奇妙な人物や生物に遭遇したり、少し先で起こることを見たり、といった現象に頻繁に遭遇してきました。

幼少期から、夢で奇妙な人物や生物に遭遇したり、少し先で起こることを見たり、といった現象に頻繁に遭遇してきました。

これは、自分が「共感覚」といわれるものを持っていると思われることとも関連があるような気がしています。

共感覚」というのは、ウィキペディアから引用すれば、次のようなものです。

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、英: synesthesia, 羅: synæsthesia)は、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象をいう。

例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりする。複数の共感覚を持つ人もいれば、1種類しか持たない人もいる。共感覚には多様なタイプがあり、これまでに150種類以上の共感覚が確認されている。

共感覚を持つ人の割合については、昔は10万人に1人などと言われていたが、最新の研究では23人に1人というものもある[要出典]。

英語名「synesthesia」は、ギリシア語で「共同」を意味する接頭辞「syn-」と「感覚」を意味する「aesthesis」から名づけられた。感性間知覚とも。

 

ウィキペディアより引用)

私の場合は、映像と音楽の相互置換や、記憶と匂い、数字と人物、においと人物など、複数が相互置換される状況にあります。

音楽と画像イメージは強く関連しあっていて、色彩や情景に連動します。

かつて芸術学のゼミナールに所属していた時、音楽に対する映像イメージを話したところ、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた子から、

「音楽は音楽だから、そんな映像とは結び付くなんてことはない。

あなたは音楽がわかっていないからそんなことを言うのだ!」

と叱責されたことがあります。

ええ!と驚いたのですが、こうした「共感覚」と言われるものも、個体差があり、誰もが同じように世界を捉えているわけではない、ということを知りました。

しかし、夢で見ることに「意味」を象徴としてとらえる、ということはある種の共感覚とも関係はあるように思います。

が、人間は一人一人が閉じられている存在です。

私が見ている夢を、他者に見せることはできません。

したがって、こうした領域の話になってきますと、人間とはなんと孤独な存在なのだろう・・・?と思わざるを得なくなります。

完全に相手に伝えることができない領域になってしまうからです。

それが、いったいなんなのか・・・?

ということは、共有ができないので、だれかに尋ねることもできないのです。

なので、幼少期から私はこうした自分にひそかに悩んでいたわけです。

夢で「未来予知」と思われる現象に遭遇するのも、おそらくは完全に他者と共有することは無理でしょう。

でも、少しだけですが、具体的にどんな感じのものなのかは、具体例をあげておいたほうが読者の皆さんにはわかりやすいでしょう。

「夢が近未来を教える」という奇妙な現象

たとえば、ごく最近もこんなことがありました。

まず八月一日に、井の頭の親戚の従姉がなぜか夢に出てきて、
「これからお宮参りにいくの・・・」と私に言いました。
この従姉は、私より三か月早く生まれていて、歳はほぼ同じですが、何十年ももう会ったことはなく、普段、彼女のことを思い出すこともないのですが、この日は彼女は黒っぽい服を着ていて、金色に輝く世界にいました。
ふと見ると、階段があって、空中にどこまでも続いていて雲の上まで伸びています。
目覚めた私は、
「??どういうことだろう?なにか葬式でもあるのかな?」
とは思いましたが、縁起でもないことを口にするのははばかられるので、黙っていました。

それから二週間ほどしたお盆の前後くらいに、朝方、夢の中で誰かが、
「井の頭の叔父が亡くなったよ」
と私に伝えました。
母?あるいは亡くなった母方の祖母?のような人物。
影のように黒っぽく見えて顔までははっきりしないのですが、明らかに歳を取った女性です。
その影のような女性が私にそうはっきりと告げたのです。

夢で遭遇したおばあさんは、なんだか母のようでもあり、母方の祖母のようでもありました。その人物が叔父の死を私に伝えました。

夢で遭遇したおばあさんは、なんだか母のようでもあり、母方の祖母のようでもありました。その人物が私にはっきりと叔父の死を伝えました。

 

この叔父さんとも、もうかれこれ30年くらいはお目にかかっていませんし、この一家のことを普段考えるようなこともありません。
それがなぜか急に短い期間に続けて夢の中に登場してきました。

あ、これは本当に亡くなったのかもな、と思っていると、翌々日、井の頭の叔母から母のところに連絡が来て、
「井の頭の叔父が亡くなったよ」と母が私に告げました・・・。

 

実は、物心ついたころから、私はこういう経験をしょっちゅうしてきたのです。

それは学校での友人関係であったり、入学試験の結果であったり、取引先からの重大な通達であったり、家庭上の重大な問題だったり・・・夢のイメージで私はなぜか事前に結果を知っている、ということは、けっこう日常的なことでした。


東日本大震災の前日、前々日の奇妙な体験

東日本大地震の際も、強烈な経験をしています。

2011年の3/11が地震発生でしたが、当時私は県のイベントに参加して、出張で鹿児島に行っておりました。

3/9の夜から、なんだか体中にビーン!とした緊張のようなものが走っていて、体中が興奮していて、眠ろうとすると、眼下に暗黒のブラックホールのような巨大な穴が空いていて、そこにググッと飲み込まれるような夢?あるいはイメージが出てくるのです。

風呂にゆっくり浸かろうか・・・?と思い、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れると火花が出てライトの電球がバチン!と切れました。

フロントに電話して、照明の電球を取り換えてもらいましたが、全身がなんだか帯電しているようで、パソコンも突然ブラックアウトしてしまうし、なにかおかしな体調でした。

へんなものでも食べたのかなあ・・・?とも思いましたが、それでも疲れているのでその晩は朝方には少しだけうとうとしました。


しかし3/10の夜から3/11の明け方にかけては、この謎の緊張状態はどんどんひどくなっていって、少し眠りに入ろうとすればすぐに、ブラックホールのような暗黒がビーン!と出てきて、心臓がどきどきして、ビクン!と飛び起きるというような有様で、一睡もできませんでした。
まるで、「眠るな!」となにかに起きていることを強制されているかのようでした。

東日本大震災前の二日間、深海の底のようなブラックホールのような巨大な穴に、飲み込まれていくイメージで目覚め、一睡もできませんでした。身体にも奇妙な緊張が走っていて、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れるとライトの電球がバチン!と切れました。

東日本大震災前の二日間、深海の底のようなブラックホールのような巨大な穴に、飲み込まれていくイメージで目覚めました。特に3/10の晩はこの状況はひどくなり、一睡もできませんでした。身体にも奇妙な緊張が走っていて、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れるとライトの電球がバチン!と切れました。

・・・ホテルの部屋で、自殺とか何かあるとこういう現象が起きる、とか昔テレビで見たことがあったものですから、3/11の朝6時頃、私は一睡もしていないボーッとした姿でホテルのフロントに行き、前日からの状況を支配人に話し、部屋を変えてほしい、とお願いしました。

支配人は、
「今お泊りの部屋は、別段、過去に不幸があったわけではなく、宿泊される方からこうした要請はこれまで一度もありません。

今日はすでにアサインもできてしまっていて、満室で変更ができませんから、もう一晩だけ様子を見てもらえませんか?もし、寒くて寝つきが悪いようでしたら、毛布を一枚追加で入れさせていただきますから」
と困ったような顔で言いました。

彼が言うのももっともな気がしたので、私は承諾して、一睡もしていないものだから頭がフラフラするのをコーヒーを三杯ほど飲んでなんとかゆすり起こし、とぼとぼとイベント会場へと出勤しました。

 

・・・昼過ぎ、イベント主催者側の担当が、
「大変だ!東日本ですごい地震が起こって報道されてるぞ!東京もかなり被害が出ているらしい!津波が来てるそうだ!」
と私たちのところに叫びながら現れました。
東日本大震災が発生したのです。

・・・あとは、みなさんご存知のように、津波で多くの方が亡くなり、福島第一原発は爆発を起こしました。

大震災が発生すると同時に、この数日間、頭の中にあったあのビーン!とするような緊張はなくなり、その晩からは同じ部屋にいるにもかかわらず、ブラックホールに飲み込まれるようなイメージは出なくなり、熟睡ができるようになりました。

重大な警告だったような気がしてなりませんが、科学的に言えばこれも「偶然」に過ぎません。

これらは、ほんの一例です。


これは能力なのか?それとも偶然なのか?

いわゆる「超能力」なのか?と言われそうですけれど、私自身は別段、幽霊が見えるとか、スプーンが曲げられるとか、これといったものはなく、ただ先になにかが起こると、それがどういう原理なのかはわかりませんけれども伝わって、夢の中で警告を発する、というようなもので、わりと頻繁にこういう一種の未来予知を幼少期より体験してきています。

自分自身では、もうそれはある種の「当たり前」の現象です。
幼い頃は、一人で遊んでいると、誰かの声が聞こえて、なに?と声を上げることもよくありました。
もともと、夢のイメージは強烈で、フルカラーでとんでもない非日常の情景を毎晩のように見るほうでした。

そこでは実在しない蛇のような生物にあったり、知らない人間も出てきました。

小学生くらいの頃は、こういうふうに夢を見て、先のことがわかって、ということは誰もがそうなのだろう、と思っていました。

・・・しかし、誰かに話しても、信じてもらえないばかりか笑われるだけでしたので、次第に、あ、これはみんながそういう夢を見てるわけじゃないんだ、と気づくようになり、中学生くらいからは誰にもこういう自分の奇妙な夢のことは話さなくなりました。

でも、あいかわらず夢の中で私は奇妙な一種の「未来予知」を経験し続けていましたから、大学生になるとこうした自分の夢を通じて体験してきている「現象」というものがいったいなんなのだろう?と知りたいと思うようになりました。

それで、いろんな本を読んで調べてみましたが、巷で売られている夢占いだとか、心霊関係とか、今でいう「スピリチュアルなもの」だとか、宗教に関することとかは、どれも論理的に飛躍がありすぎるように思われ、私に満足できる回答を与えてくれそうなものはありませんでした。

唯一、合理的に思えたのはフロイトの「精神分析学入門」でした。
フロイトは、夢のメカニズムを性的なコンプレックスに置いていて、確かに自分の夢の中にも性的「代償」としての夢と思われるものはけっこうありましたから、納得ができる部分はあったのです。
しかし、では、未来を暗示するとしか思えないような夢は・・・?
ということになってくると、それはフロイトの範疇を越えてしまいました。
というよりも、フロイトの場合は夢や心理的現象はすべて本能に根差した性的衝動を意識が押さえつける結果、コンプレックスのなせるワザとしてでてくるものだ、という理論を主張していますから、前提として未来の予知というような問題は「対象外」となってしまうのです。

ジークムント・フロイト博士の著作は、今や古典作品ですが、「夢」という主観的なものに「はたらき」があると初めて論理的に指摘した研究は、その後の心理学分野の大きな出発点の一つとなっています。

ジークムント・フロイト博士の著作は、今や古典作品ですが、「夢」という主観的なものに「はたらき」があると初めて論理的に指摘した研究は、その後の心理学分野の大きな出発点の一つとなっています。

そのようなことを、少し私の話に理解を示してくれていた友人と話していたら、それではユング心理学でものぞいてみたらどうか?と勧められました。
それで読んでみようか?とも思ったのですが、ユング博士の著作物というのはフロイトの「精神分析学入門」のような、決定的にまとまったものはなく、膨大なものが刊行されており、そのうちの一冊を試しに読んでみようとしたものの、概念の理解がフロイトよりもはるかに多岐にわたっていて難しく、大学1,2年生の当時の私はあっけなく挫折してしまいました。

それで、ひとまずは私は自分の夢に関する探索は取りやめることにしました。
私が学んでいた社会科学系の学校は、あくまでも「科学的」な学問を学ぶところでしたから、私が長年ひそかに悩んでいる「夢」のような主観的なものについては、真剣に悩んでいるとすれば眉唾扱いされる傾向はあったのです。
なので、なんらか自分のこういう夢のことが分かればいいなあ、とはあいかわらず思っていたものの、私はまた口を閉ざし、そういった自分の夢や未来予知ともとれる「偶然」に関する問題は封印し、切り札のないままにバイトに明け暮れ、当時のごくフツーの大学生活を送っていました。

社会科学の大学生をやっていれば、科学とは実証性があり、再現性があるから科学であることくらいはわかります。
私本人は、幼少期からの自分の夢を通じた未来予知のようなことに悩んできたものの、これを「能力」というには、あまりに主観的なことなので微妙であることも自分でわかっていましたから、こうした分野に関心をもつことでスタンダードから異端視されることを恐れたのです。
科学としてみたら、それは単なる「偶然」に過ぎないということも理解していました。
なぜならば、私の夢がどう見えているか?については、誰も検証できることではないのですから。


そうして私の学生時代は終わりに近づいていました。

 

そんな大学生活も卒業が近くなったころ、ある東洋経済史の授業で、中華世界の文化の根底に関する講義の中で易経の話が出ました。

たまたまでした。

それまで大学受験で世界史の教科書に「四書五経」というのがあって、科挙(中国歴代王朝の官僚登用試験)などでも必須であった、というようなことは知っていましたが、私はこの時初めて、その中で最古のものである「易経」が道教儒教の根本経典の一つとされていること、そして「占い」に関する書物であることを知ったのです。

 

それが、今回始めた易経占いブログにまつわるすべての始まりだったわけですが・・・少し長くなりそうなので、続きは次回にしましょう!