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易者の履歴書 その4

易者の履歴書 その4

「易者の履歴書 その3」まででは、易者が20代を通じて自分の易学の基礎というべき体験をしてきたことをお話ししました。

yijing64.hatenablog.com


今日はその後のお話です。

「神が死んだ」世界

ニーチェは、現代人の知性の向かう先を、「神が死んだ」世界とし、神に代わる価値を探そうとした人物です。最後はこの難題に耐え切れず、発狂するという悲劇的な生涯を送りました。

ニーチェは、現代人の知性の向かう先を、「神が死んだ」世界とし、神に代わる価値を探そうとした人物です。最後はこの難題に耐え切れず、発狂するという悲劇的な生涯を送りました。

近代から現代にかけて、私たち現生人類の世界観というものは大きく変化しました。
数値的に実証性のあるものを究明することで、「近代科学」というものができてきて、それにより様々なことが明らかになり、また様々なものが作り出されるようになります。
蒸気機関の開発はやがてはタービンによる電気の発生と電気による照明や様々な機器の開発につながっていきましたし、いろんなものの化学組成を研究することはプラスチックをはじめ様々な人造の材料を生み出すことになりました。
病気の原因としてのバクテリアやウイルスが解明され、それに対抗するワクチンや抗生物質が生み出されることで人類の生存率は大幅に伸びることともなりました。
フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と述べた「ツァラトゥストラ」を書いたのが1885年ころのことです。
これはいろいろな意味を含む言葉ですけれど、人間界において、「数値で実証性があるもの」、すなわち「科学」が一番大事な価値として働くようになった時代の象徴としてよく取り上げられます。

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それまで、人間界は「世界には理解しがたい大きな側面がある」、すなわち「神」と呼ばれる領域が「存在する」ということを前提としてきました。
人間は非常に長らく「神」を信じて怖れ、敬ってきたのでしたが、「神が死んだ」世界では、「数字」「数量」がそれにとって代わり、数字につながるメカニカルなシステムにより世界が説明されることになります。
そして、いつの間にか、「数値で実証性を持たないものは、存在しない」という方向性へとそれは変貌していきました。
現代を支配する「科学」というものは、世界はあらゆるものが即物的で、科学的な説明が可能である、とします。
人間の感情や気持ちといったものも、脳内の化学物質の分泌量の問題として説明されます。
数字で世界を説明するのですから、そこでは数字が良ければすべて善ともなります。
教育も数字ですべてが評価されます。
個人の知的能力はIQで評価されますが、これもまた数字です。
その先の一般社会も、仕事だろうがなんだろうが数字だけで物事の良し悪しの評価が決められます。
政治でも多数決で数字が多いものが権力を握ります。
それまでの神に変わり、数字が「新たなる神」となったのです。


数量価値の世界の問題点

数値により一切を説明し、評価する現代。ニーチェはあるいはこうした世界の到来を前に、別な形の価値を求めていたのかもしれません。

数値により一切を説明し、評価する現代。ニーチェはあるいはこうした世界の到来を前に、別な形の価値を求めていたのかもしれません。

現代日本を考えると、ある意味、「神が死んだ」状況というのはけっこう徹底しているような気がします。
日本の場合は、学校における価値は「偏差値」、社会人としての価値は「年収」、「資産」という「数字」に置き換えられ、マスコミ含めて徹底してこの数字の価値観で物事をあげつらいます。
数字で説明されるもの以外は、無価値であるかのような物言いを、有名人だの芸能人だのといった人々が知ったような顔をしてペラペラ話します。
ネットポータルなどでニュース記事を見れば、そんな記事ばかりです。
アクセス数や書き込みなどの分析で「後出しジャンケン」でばかりモノをいう人も増えました。
自分の見解というより、人気取りでモノを言う人が増えると、ああ言ってたのが急にこう言ってみたり、また戻ってみたり、一貫性など何もなく、結局はこの人は言いたいこと自体がないんではないか?と思われるようなコメンテーターだらけです。
こうした社会というのは、ある意味、数字主義の結果として出てくるものです。
問題は、こうした数字主義というのは、一方ではそれに対応できない、大量の人間を生み出してきています。
不登校の子供が異常に増えました。
易者が住む田舎の町の中学校は、現在、一学年が一クラスしかなく、30人前後の生徒しかいません。
数年前、近所の幼馴染の娘が不登校になり、ガッコに行っていないということで少し関わったことがあるのですが、なんと30人ほどのクラスで、不登校の子が10人近くいるというのです。
これは、大変なことです。
でも、これは田舎の中学校に限った話ではありません。
易者の叔父が、浦和で60年近く学習塾をいとなんでいるのですが、以前は夕方から子供たちが来て、勉強をしていく普通の補習塾でした。
近年、この塾は不登校児の駆け込み寺のようになっており、朝から学校に行かない子供たちがやってきます。
多い時は平日の昼間から10人以上の不登校の小中学生で賑わっています。
これには易者はびっくりしました。

膨大な数の不登校児童。数値価値観の見直しが叫ばれて久しいですが、状況は改善するどころか年々深刻になっているような気がします。

膨大な数の不登校児童。数値価値観の見直しが叫ばれて久しいですが、状況は改善するどころか年々深刻になっているような気がします。


最新(2023年10月現在)の文科省の統計では、小中学校の不登校者数は、なんと299,048人(前年度244,940人)というのですから、これは異常な数字でしょう。
しかも子供の数が減っているというのに不登校の子供がどんどん増えています。
不登校だけで済まない話は、子供の自殺件数です。
2022年の小中学生と高校生の自殺件数は、512人となり、過去最多だといいます。
ただでさえ少子化で人口減少が加速している日本ですが、これは非常に多くの子供が現在、学校に代表される数字的な価値観にすでに適応できていないばかりか、未来に希望を抱くことができない状況を意味していると思います。
多くの子供が未来に希望を持てないとするならば、大人になっても結婚して子供が欲しいと思うでしょうか?
人口など増えるわけもありません。
要因は多岐にわたるように見えますが、最大の原因は、数字の信仰ですべてを結論付けるという「神が死んだ」世界の価値観というものが、ある意味もっともマイナスに影響しているのが日本のような気がしてならないのは易者だけでしょうか。

焼鳥屋でスカウトされて営業の世界へ、そして台湾に行くことに

いきなり脱線していますので、話を易者の履歴書に戻します。
ある意味、易者自身も二十代のことを考えるに、こうした現代日本社会の規格からは大きく逸脱してしまっていた、と言えるかもしれません。
それにより、一種の不登校ならぬ「社会不適合者」になっていた易者が、「自然の流れの中に自分を任せてみよう」と思うようになった時に、焼鳥屋でスカウトされて足を踏み入れたのは、まさに「神が死んだ」、数字を徹底的に求められるような営業の世界でした。

自然な流れに身を任せた結果として、シビアなビジネスの世界に身を置くことになりました。

自然な流れに身を任せた結果として、シビアなビジネスの世界に身を置くことになりました。

まだ駆け出しのベンチャー企業だったため、商品を営業していくにも私を入れて4人しかいないようなところで、売り上げを拡張するためにしのぎを削る世界に足を踏み入れることになったのです。
朝から晩まで駆けずり回り、全国を飛び回るような生活が待っていました。
休みなどはなく、365日、24時間営業のような生活になりました。
しかし、不平は言いませんでした。
易経道教でいうところの「中庸」として流れに身を任せてみよう、と思った結果として出てきた状況でしたから、そうなるだろうなあ、と最初から分かったうえで足を踏み入れたということもありますし、また自然な流れでこういう状況になっているわけですから、今はこうした状況に身を置くことで自分を鍛えねばならない時期なのだろうから、しかたがないな、という納得があったからです。
でも、明らかに今風に言えば、とてつもなくブラックな労働環境で、別段、給与がすごくいいわけでもなく、ああいう環境で長くやれる人は少ないと思いますし、決しておすすめできるものではありませんが。
その会社の社長は、典型的に数字資本主義の低レベルな自己啓発本セミナーの影響を受けているような浅薄な人物で、右肩上がりを続けてやがては天下統一したいような人でした。
しばらく頑張ったら、会社の売り上げは20倍くらいに跳ね上がり、従業員数は数十人に増え、全国に商品は流通していくようになりました。
社長さんは、世界征服の妄想が出始め、海外にまで進出するというアホらしい計画を立てて、台湾にまで会社を作ると言い出しました。
そして、自然な流れに身を任せ、文句を言わずにやっていた私に白羽の矢が当たり、私が行かされることになってしまったのです。


神がまだ生きている?世界の衝撃

この話は、別に私の仕事の体験を書くものではありません。
私が、予期もせず赴任することになった台湾で、なにに一番驚いたか、ということが書きたいのです。
まずは、台湾の街中では、民家の玄関口に、鉄でできた非常に使い古した焼却炉がどこの家にもありました。
当初は、これは家庭内の可燃ごみを燃やすための簡易焼却炉なのかな?と思っていたわけですが、実は焼却炉ではあるのだけれども、これは宗教行事で、神に紙でできているお金を燃やして捧げるための焼却炉なのです。

道教寺院の、神に神のお金を燃やしてささげる焼却炉。各家庭にも小さな焼却炉があります。ゴミを燃やすものではなく、道教の宗教儀式には欠かせないものです。

道教寺院の、宗教目的の焼却炉。「宗教ショップ」(というようなものが、台湾にはどの町にもあります)で売られている紙でできたお金を燃やして神にささげる。各家庭にも鉄でできていて使い古された小さな焼却炉があります。ゴミを燃やすものではなく、道教の宗教儀式には欠かせないものです。


間もなく実際に、この炉を使っている光景を目にする機会に恵まれましたが、中華世界では農歴(太陰暦)に基づいて宗教行事運営が今も行われており、節目ごとに人々は家の軒先でお供え物をテーブルの上に並べて長い長い線香をつきたて、その前で紙のお金を家庭用の簡易宗教焼却炉に入れて燃やして祈りを捧げます。
街中にはこうした宗教行事で使う道具や飾りや紙でできたお金を販売する店がどの町でもあり、人々はごく普通に、「拝拝(バイバイ=神へのお祈り)をしないと、鬼神に祟られて良くないことになる」と口にします。
日本でも、初詣とか節句のお祭りがあるときには、人々は神社もうでをしたり、神輿を担いだりしますし、春分秋分やお盆には墓参りをしたりする風習は今もまだ残っています。

日本でも節句や宗教行事はまだありますが、限りなくイベントあるいは小売業のセールの一環のようで、宗教的な意味合いは形骸化されている気がします。

日本でも節句や宗教行事はまだありますが、限りなくイベントあるいは小売業のセールの一環ちなっていて、宗教的な意味合いは形骸化されている気がします。

 

しかし、日本人の場合は、それを宗教的行為として行っているというよりも、多分にイベントの一環として行っていて、内容的には形骸化しています。
実際、節句などの行事参加の意味合いは年々薄れ果てていますから、スーパーなどの売り出しの口実に過ぎなくなっています。
これは、宗教心そのものがなくなってきていることとも相関します。
現代日本では仏壇のない家も多いですし、たとえば神社にお参りするにしろ、ほとんどの人はそれでご利益があるなどとはマジメには考えていないのではないでしょうか。

一方で台湾の場合は、街中のいたるところに「寺廟(ツミャオ)」と呼ばれる道教寺院はあって、そこは周辺の住人の共同管理で運営されていて、ほぼ常に大きな香炉に長い線香が燃やされ、街中のどこを歩いても線香の匂いが漂ってきます。

台湾の道教寺院は、いまだに重要な信仰の対象です。どんな小さな道教寺院でも一日中、参拝者のともす線香の香りが途切れることはありません。

台湾の道教寺院は、いまだに重要な信仰の対象です。どんな小さな道教寺院でも一日中、参拝者のともす線香の香りが途切れることはありません。

 

「拝拝(バイバイ=神へのお祈り)をしないと、鬼神に祟られて良くないことになる」というのが、彼らの多くが本当にそう思って言っているということに気づくにはそう時間はかかりませんでした。
文化大革命で宗教を否定した中国本土よりも台湾や香港はいにしえの宗教が根強く残っている、という話は聞いたことがありましたが、多くの人間が現代生活を普通に送りつつも、神の存在をかなりマジメに信じている社会というのは、日本人の私からしてみたら、衝撃的な体験でした。
そしてふと気づいたことに、道教系「寺廟」には必ずや、私が易経占いの研究をして慣れ親しんだ、あの「太極マーク」が描かれていました。


道教寺院の占いで易に再会

さて、台湾で仕事をしていた時に通訳等で手伝ってくれた女性と私は交際するようになり、やがて彼女と結婚し、娘を授かることになるのですが、彼女の実家というのは台湾南部の「福佬(フウラオ)」と呼ばれる古い福建系漢人の一族で、近くの道教寺院に通っている家でした。

道教寺院には、必ず太極マークがあります。道教は易経を根本経典の一つとしているのです。

道教寺院には、必ず太極マークがあります。道教易経を根本経典の一つとしているのです。

この寺院の道士である住職は、特殊な能力を持っていて、「占いができる」ということで有名な方なのですが、妻と結婚する前後から私もその寺院に連れていかれ、その占いというものをして観てもらう機会に恵まれました。
ここでの占いのやり方は何通りもあって、「おみくじ」形式のやり方と、「米占い」という形式のやり方が主に行われています。
「おみくじ」の場合、箱の中に入れられた棒を小さな穴から振って一本出します。
これは日本でもある形式で、棒の先に番号が書かれていて、その番号の引き出しの中からおみくじを取り出す、というものなのですが、この寺院では出た棒に対して「擲筊(ジージャオ)」と呼ばれる貝を模した木片二つを床に放るのです。

ja.wikipedia.org


「表」が六回続かなければ、永遠にこれを繰り返します。
そして表六回が出たら、初めてその番号の引き出しからおみくじを出してもらうのですが、・・・この結果については、基本的に易経の卦辞や爻辞を用いたものが書かれていて、それを住職に手渡すと、彼が占い手が問うている件についていろいろとお話ししてくれます。
「米占い」については、ここの住職のオリジナルのもののようで、神前に置かれた米粒を、ランダムにつまんで神前の台の上に落とします。
これを三回、台の上で行っていきます。

この道教寺院の「米占い」は、住職オリジナルのもの。三か所に置いた米の状況から、遺伝子のノドンコード式に卦を導き出すのが基本のようですが、住職自身の能力とも連動しているもののようです。

この道教寺院の「米占い」は、住職オリジナルのもの。三か所に置いた米の状況から、遺伝子のノドンコード式に卦を導き出すのが基本のようですが、住職自身の能力とも連動しているもののようです。

 

住職自らがそれを見て判断を行うのですが、やはり出てくる結果は易の64卦から導き出されてきます。
驚くべきことは、この住職は、私が話してもいないこと、妻すら知らないようなことまで、米占いでもおみくじでもズバズバ言い当てるのです。
ある時、私は、「どうして、あなたは話してもいないのに私の幼少期のことや実家のことが分かるのか?」と訊いてみたことがあります。
彼は、「神々が教えてくれる。浮かぶのだよ。米をあなたがつまんで三か所に置く。その出方を見ていると、卦も分かるのだが、同時に、一瞬で神々があなたの昔の姿を垣間見せて私に教えてくれるのだ。時にはあなたと話した晩の夢の中で、あなたの幼少時代に行ってくることもある。それは、私が行こうとしなくても、神々がそこに連れて行ってくれるのだよ」。

道士である超能力(?)住職が、「神が教えてくれる」と表現することは、易者自身の夢の未来予知と非常に似通ったものを感じさせられます。集合無意識とのアクセスは、未来も過去も関係ないものなのかもしれません。

道士である超能力(?)住職が、「神が教えてくれる」と表現することは、易者自身の夢の未来予知と非常に似通ったものを感じさせられます。集合無意識とのアクセスは、未来も過去も関係ないものなのかもしれません。

私には、住職の言うことが、自分の夢での未来予知と重なって感じられました。
住職が予見する未来予測や見通しは、非常に的確なもので、少なくとも私自身についてみれば、ほぼ100%当たっている、といってよいと思います。
この方は、私には、夢の中の予知のような能力と、易の占いが道教の神々のもとで融合した人物のように感じられました。


道教は特異?仏教やキリスト教の方が特異?

ユング博士は、宗教を無意識領域の表現として取り扱った人です。
彼の場合は、父親が牧師だったこともあり、その研究対象は主にキリスト教ユダヤ教、また錬金術といったものが主でした。
しかし、宗教というものが、基本は不可知論で、現実世界に生きる私たち人間が通常は知りえない世界が「ある」ということを前提としていることは、世界中どの宗教でも共通しています。
不可知な領域のことを私たちは「神」と呼んだり、「涅槃」「如来」と表現したりするわけですが、ユング的な表現をするならばこれらはある意味、すべてが「集合無意識領域」についての表現であると言えます。

無意識領域とのコンタクトは、すべての宗教において、重要な役割を果たしているようにも思われます。

集合無意識領域とのコンタクトは、すべての宗教において、重要な役割を果たしているようにも思われます。

そしてどの宗教も「無意識世界とのコンタクト」をその重大な目的の一つとしているように思われます。
仏教はこの点では比較的ダイレクトで、禅宗でなくとも座禅や瞑想といったことを通じて集合無意識領域と直接アクセスすることをかなり重視していますが、キリスト教でも「啓示」と呼ばれることは、ある種の集合無意識界とのアクセスに他なりません。
聖書は、私たちは新約聖書福音書に目をとらわれがちですが、膨大な聖書のうちの多くを占める旧約聖書預言者たちにかかわる記述は、実は一種の霊界通信とでもいったほうがよいような、現実とは異なる世界とのアクセスから垣間見たイメージに満ちています。

易経が、無意識世界とのコンタクトツールであるとしたら?このような手段が付随する宗教というのは、ある意味洗練されているともとれるかもしれません。

易経が、無意識世界とのコンタクトツールであるとしたら?このような手段が付随するという点で、道教は非常にユニークです。システムとして洗練されているとも言えるかもしれません。

道教の場合、他の宗教と比べて、そもそも易というかなり完成された「無意識領域とのアクセス手段」をその根本経典として今も実際に用いている点において、ユニークで特異な宗教であると言えます。
いや?特異というわけではないかもしれません。
中華世界の人口を考えたら、中華系と言われる人々は人類の約四分の一を占めるわけで、すべてが道教の信者ではないにせよ、そのバックボーンとなっている彼らの宗教観というものは、むしろ人類全体からしたら「主流」なのかもしれず、あちら側から見たら私たち日本人や欧米人の宗教観や、数字や数値を神に置き換えた社会構造の方が特異なのかもしれません。
集合無意識領域の取り扱いについて易というシステムとして完成されたツールを持っている、という点において道教は、占いという形で集合無意識と接触することを身近なものにしているようにも思われます。

これが、この世界の人々の中では、神がいまだに生きている理由なのかもしれません。

無意識構造の表現としての道教寺院

道教寺院の構造は、明らかに人間の無意識世界の構造を表現したもののように思えます。
道教寺院に一歩足を踏み入れますと、まずは強烈な線香の香りと煙の中で、薄暗がりに無数の神々の像がすすけて真っ黒い姿で現れてきます。
基本的に、三体とか五体が一列に並びつつ、ひな人形のように段を作り神々が配置されます。
ちなみに、私がよく行く道教寺院では、その主神は「呉府千歳」といい、福建省に由来する古い五体の神々ですが、この神は、なんと元々は赤痢マラリアコレラなど疫病の病原菌やウイルスだというのです。
彼らは免疫能力の強い人間を取捨選択することで人間の進化に関わり、さらには外敵から人々を守護している、と考えられているというのには、非常に驚きました。
でも、「呉府千歳」の周りには他にも無数の神々が配置されており、関羽もいれば、仏教の阿弥陀如来もいれば、媽祖(まそ=福建などの沿岸部で信仰が根強い女神)もいて、なんだかごちゃまぜです。

道教寺院の内部。由来が異なる様々な神々の像が、所狭しと安置されています。子供が内部で遊んでも、咎められることもありません。

道教寺院の内部。由来が異なる様々な神々の像が、所狭しと安置されています。子供が内部で遊んでも、咎められることもありません。

これは、中華世界というものが、次から次へと多くの民族が混交することで成り立ってきたことと関係があるでしょう。
そのたびごとに、異民族の宗教神であったものが包摂されて神々の数が増殖していったのだと考えられます。
異民族や異教の神々を排除するのではなく、飲み込んでいくことで中華民族道教も成り立ってきています。
これは、信仰対象を単純化する傾向がある日本人や、一神教を信仰するキリスト教世界やユダヤ教イスラム教世界の人間にとっては実に驚くべき宗教観だと思います。
聖戦(ジハード)といった宗教的攻撃性とはそもそも異なる世界観です。
道教と近いと思われるのはヒンズー教ですが、ヒンズー教よりも混交性が未だに継続しているという点で、道教は今もまだ増幅中といっていいのかもしれません。
こうした多神教的な宗教観は、私たちの無意識領域には、多数の「原型」と呼ばれる無意識のエネルギーの形が存在するというユングの「原型論」仮説とも極めて近い構造をしています。

私はさらに、この道教寺院の「階層性」に強い興味関心を覚えました。
さらに上の階があるのです。
上階にいくと、今度は黄帝とか神農とか、次第に抽象化された漢民族の祖先神と思しきものに変化し、一階に見られた「ごちゃまぜ」スタイルは整然と整理されていき、むしろ日本の仏教寺院のようなコンパクトでシンプルな、あるいは曼荼羅を思わせる様相に変化していきます。

道教寺院の構造は、基本的には重層構造です。これは無意識世界の表現ともとらえることができると思われます。

道教寺院の構造は、基本的には重層構造です。これは無意識世界の表現ともとらえることができると思われます。

この上階をも、すべて合わせたものが、彼らが「神」と呼ぶものです。
一階から、上階へ行くにつれての変化は、無意識の階層を表現しているのかもしれません。
一階は、上述のようにわりと現実世界ともかかわりのあるようなイメージです。
台湾では比較的最近の実在の人物が神々の中に加えられている場合すらあります。
台南の農地設計を指導した八田与一や、日本統治時代の航空隊長が加えられていることもあります。
関羽とか、かまどの神などもいるように、神々と言ってもどこか人間的で、身近なところにいる霊魂のような印象を受けます。
上の階に行くほど、こうした人格的な要素は消え、人間離れした、「機能」とか「原理」といったものの象徴に姿が変わっていきます。
これはまるで、無意識の階層は、意識に近い領域から始まり、そこから深いところへとさかのぼっていくと、「原理」のようなものに純化されていく、ということを物語っているかのようです。

妻の一族の道教寺院では、一階から四階まであって、一階は身近な存在で満ちているのが、上へ上がるほど抽象的で、永遠性を表現する不可解な表現となっていきます。

こうした構造性は、キリスト教や仏教とは異なる原始性と土着性を色濃く残しているとともに、意識から無意識、そして集合無意識へと向かう私たちの精神世界の深度の段階を表しているようでもあり、私はユング博士の論文を読んだとき以上に無意識領域というものの構造を直接的に教えられたような、「あっ!」と思わざるを得ない強い衝撃を覚えました。


無意識とのアクセス=占い

人類は、無意識世界あるいは神々から得た情報を行動に反映させて長い年月生きてきました。むしろそれを否定した時代というのは、まだたかだか200年程度に過ぎないのです。

人類は、無意識世界あるいは神々から得た「情報」を行動に反映させて長い年月生きてきました。むしろそれを否定した時代というのは、まだたかだか200年程度に過ぎないのです。

この道教寺院も、太極マークとその周りに64卦の易経記号が、石に刻まれて壁に埋め込まれていました。
住職が作成した占いは、彼自身の特殊な能力もあるにせよ、基本は易経を母体としています。
そして、ここでは占いという「神々=集合無意識とのアクセス」を求めて住職を訪ねる人は後を絶ちません。
人々は敬虔な宗教的行為として占い=神々あるいは集合無意識領域とのアクセスを真剣に求めてやってきます。
具体的に事業を起こそうと考える人や、不動産投資を考えている人などが、その見通しを神々に尋ねるために占いを行っては、住職からシニカルに一刀両断でダメ出しされているような光景が日常展開されます。
住職はしかし、占いの要請に応える日と応えない日がありますし、占いを行う人と行わない人がいます。
理由は、神々とのアクセスは行えない日もあるということ(理由はわかりません。彼自身の体調もあるかもしれないし、なんらか天体の運行上のことも関係ありそうです)と、真剣に話を聞く耳を持たない人には、神々からの声を届けても無意味だから、と言います。
「徹底した宗教的行為としての占いを現実生活に反映させる」という点が、日本の占いとはまったく異なっています。
それにしても、無意識とのアクセス手段としてのこうした占いが、現代においても重要な意味を持っているということは、最初に述べた現代社会を覆う「数値主義」や「科学」が排除してしまった領域が、今も実際の日常世界の中に生き残っているわけです。

私は、幼少期から自分の夢による能力が、「頭がおかしいからではないか」と思ってきたのですが、易やユング心理学以上に、こうした道教寺院での体験は、自分がおかしいわけではなく、そもそも人間というものは膨大な無意識領域とのボーダーに存在するものなのだということを、確信させてくれた、非常に大きな体験でした。

そして、易というものの個人研究は、これまでの段階から一歩前進したものとなっていきました。
最初にお話ししたように、現実世界においては、私は科学的に生きているのは昔も今も同じです。
営業の内容は数値的に分析しますし、表計算その他から徹底的に数値計算して商品の開発は進めます。
しかるに、未来に関することはデータだけで判断などできません。
たとえば、データや数値でいえばいい見通しになると思われたとしても、「なにか、気乗りしない」「どうも引っかかって進める気になれない」というような「予感」がある時というのは、それが自分自身の怠惰ではない場合、数値ではないところで、なにかを感じている場合も多いのです。
往々にして、そういう計画や予定は、不測の要素で邪魔が入ったり、トラブルが起こったりして進まない、あるいは状況が大きく変化して大失敗につながる、というようなことはあるものです。
私は思うのですが、商売であろうと人間関係であろうと、生きていく上では私たちはこうした「予感」というものは大切にするべきではないでしょうか。
おそらくですが、数値世界で成功している人でも、多くの人は自分の「予感」は大切にしているのではないかと私は考えます。

実は、予感や直観などは、無意識的に感じている未来予知の一種なのかもしれません。占いも含めてそうしたものを数値データとともに大切にする生き方は、現代生活と矛盾するものでは決してないのだと思われます。

実は、予感や直観などは、無意識的に感じている未来予知の一種なのかもしれません。占いも含めてそうしたものを数値データとともに大切にする生き方は、現代生活と矛盾するものでは決してないのだと思われます。

 

この「予感」を、一歩進めて客観的にとらえるための手段として、易は非常に有効な判断材料ともなりえるということを私は道教寺院から学んだのです。

「神が死んだ」世界こそが現代のスタンダードだと私たち日本人の多くは考えています。
しかし、少し海を渡れば、数値も重視したうえで、神々の存在を当たり前のこととして受け入れ、科学では出てこない領域からの見解を占いによって確認し、普通にスマホを使いパソコンを使い、ビジネスも展開している世界が存在しています。
つまり、私たちは科学的でありつつ、「完全にはわからない領域=神々の世界」をも受け入れて生きることはできるし、「科学や数値」と「神々の領域」というのは、そもそも分断されてしまう必要などないのではないでしょうか。

さて、私が道教や易に非常に強い関心を持っていること、そして私自身では無意識領域ととらえている道教の神々の領域についても決して冷やかしなどではなく真剣に考えていることを、道教寺院の住職はすぐに見抜いたようでした。
そして、次第に私が行くと「日本人、来たか」といって笑い、老子の道徳経の話など、お茶を飲みながらしてくれるようになりました。
これは、妻や一族の長の叔母が言うには、この住職にしては非常に珍しいことなのだそうです。
別に、「読んでみなさい」などとは言わないのです。
しかし、私には、語らずとも、「参考文献で読んでごらん。あなたは易については日本人にしてはよく知っている。神々の世界を否定していないことも私にはわかる。だが、もっと深く知ることができるよ」と言ってくれているのが、よくわかったのです。

そこで、老子荘子などに手を付けてみることになったのでしたが・・・だいぶ長くなってきていますから、続きはまたの機会にします。

 

易者の履歴書 その3

「易者の履歴書2」までで、易者が易経占いを始めたころの話まできていました。
続きです。

yijing64.hatenablog.com

「象徴」とはなにか?

狭義の象徴は、国旗や社章などです。国や会社のイメージを代理で表すものです。狭い意味では象徴とは「言い換え」にあたるものです。

狭義の象徴は、国旗や社章などです。こういうものは表す対象が限定されます。国旗や社章は国や会社のイメージを代理で表すものですよね?狭い意味では象徴とは記号としての「言い換え」にあたるものです。

さて、易経の結果で出てくる「卦(か)」や「爻(こう)」に示されるようなことは、「象徴」というものです。
象徴とは「シンボル」とも言いますが、浅い意味では、「ものごとを指し示す別の形体の記号」という意味になります。
たとえば、国旗とか社章といったものは、こうした意味での国や会社の象徴です。
しかし、易の象徴や、タロットカードの象徴といった場合は、また少し広い意味での象徴となると思います。
たとえば、タロットカードで大アルカナ0番の「愚者」というカードがあります。

ライダース・ウェイト・スミス版タロットカードの「愚者」。見る者はなにを感じるでしょう?自由な連想を呼び起こす多義的なものをまた「象徴」といいます。タロットカードや易の卦辞は、典型的な象徴です。

ライダー・ウェイト・スミス版タロットカードの「愚者」。見る者はなにを感じるでしょう?自由な連想を呼び起こす多義的なものをまた「象徴」といいます。タロットカードや易の卦辞は、典型的な象徴です。

基本的には、「財産も持たずに放浪する若者」という図象なのですが、ここからいろんなことを人は自由に連想します。

無責任?
自由?
失業?
旅?
若さ?
希望?
不安?
実は賢者?
崖っぷち?
・・・などなど。

つまり、象徴というのは、広い意味合いだと、「見るもの、触れるものに無数のイメージをかきたてさせるような表現」ともなるのですね。
ある象徴から、なにを感じるかは見る人のほうに答えがあるのであって、象徴自体は同じであっても、触れる人の人生経験ですとか性格、バックボーンによりとらえられる意味合いは無数です。
絵画や詩、書などは、特に象徴性の強いものです。

より人間の深い部分から連想を引き起こす力を持った象徴を、私たちは「芸術」といいます。

より人間の深い部分から連想を引き起こす力を持った象徴を、私たちは「芸術」といいます。

見るもの触れるものに、より深い連想を呼び起こすことができる象徴性を帯びたもののことを、私たちは「芸術」と呼びます。
どのような、そしてどれだけの連想の広がりを醸し出すことができるか?が、芸術というものの基準といっても言い過ぎではないと思われます。

夢と象徴と共感覚

私、易者が、幼少期より「未来予知」のような夢を見ることで悩んでいたのは、他の人はそのような夢は見ないというので、
・・・それでは、自分は、ビョーキじゃないのか?
という恐れを感じていたからでもありました。

しかし易やタロットカードの研究や、シンクロニシティの考え方を知るにつれ、夢もまた単なる未来予知などではなくて、象徴言語でなにかを伝えるものではないのか?
という仮説が私の中に湧き上がっていました。
そして、自分はどうもその影響を人よりも強く受けてしまっているようだ、と。
それは、今だからわかるのですが、私が共感覚者であったからです。

共感覚は、非常に奇妙なもので、人が特定の数字に見えたり、音が色を持っていたり、音楽から映像が浮かんだりします。個人的な体験となるので、他者との共有はできません。

共感覚は、非常に奇妙なもので、人が特定の数字に見えたり、音が色を持っていたり、音楽から映像が浮かんだりします。個人的な体験となるので、他者との共有はできません。

音楽が映像や色彩と変換されてしまったり、数字が人に見え、人に特定の数字が見える、というような「変な」感覚を持っているものですから、たとえば夢を見るとしても、それは抽象絵画のようなものも多く、そこからさまざまなことが連想され、悩んだりもするのです。
象徴に対するある種の過敏反応が起こっているような状態のわけですので、ある意味、他の人たちから見たら、おかしなことを突然言い出す複雑怪奇な人間に見えていたのは間違いないと思います。

ですが、一方で私はどこかでそれを認めたくないというか、そういう特殊性は社会性とは無関係なのだから、社会ともちゃんと接点をもって、フツーに生きていきたい、という願望はありました。
しかし、かなり無理をしていたのだと思います。
人間は、その時その時で自分と状況との「折り合い」をつけて生きていくものです。
当時の自分は、その「折り合い」として、非常に変わり者の社長の弟子として、奇妙な出版社に就職するということでなんとか自分の身の置き所を探そうとしていたのだと思います。

破たんと転機

しかし、27歳のころ、私には大きな転機が訪れます。
・・・すべて、イヤになってしまったのです。
自分のしていることのなにもかもが、です。

転機。それは、27歳の時にやってきました。・・・すべてがイヤになってしまったのです。

転機。それは、27歳の時にやってきました。・・・すべてがイヤになってしまったのです。

働いていた出版社が、それほど劣悪な環境であったわけでも決してありませんでした。
社長をはじめ、いろいろと気を遣ってくれて、多くのことを教わったと思います。
にもかかわらず、自分が、常に周りの目を恐れて自分を繕っているんではないか?とか、本を作る仕事なんていっても、しょせんはウケがいいことをあげつらっているだけではないのか?とか、いろいろな疑問がそれまで累積していたのが一気に爆発したような状況になってしまい、仕事をできなくなってしまったのです。
年末に出版社を辞めたあとは、なんだかすべてに疲れてしまったようで、寝てばかりいました。
これは、非常に深刻なことでした。
なんだか、これまでその場その場の「折り合い」で済ませていたことが、自分の内部から発生した巨大なるなにかによって吹き飛ばされ、自分の中で実現されたがっていたあらゆるものが姿を現し、自分でもそれをどうしたらいいのかが分からなくなってしまったのです。
長らく恐れていたことがついに発生した感覚もありました。

鬱病」というならば、そうなのかもしれなかったのですけれど、少し一般的な鬱病とも違っていました。
ある種の、「共感覚の爆発」のような状態だったからです。

共感覚の爆発。なかなか読者の皆さんに伝わるかどうか、それはあらゆるものの本音がわかってしまうような感覚です。病的状況であることは疑う余地がありません。

共感覚の爆発。なかなか読者の皆さんに伝わるかどうか、それはあらゆるものの本音がわかってしまうような感覚です。病的状況であることは疑う余地がありません。

 

こんな事をしているわけにはいかない、働かなければ、と思い、面接を受けに行ったりもしましたけれど、面接担当の表情やしぐさや片言から、相手の性格や真意が言葉で聞くまでもなく分かってしまうような気がして、面接を受けている間にシラけてしまうのです。
当然、採用面接など行くところ行くところすべて不採用です。
テレビが観れなくなりました。
テレビに出ているタレントたちのシナリオが見え透いてしまうような気がして、バカにされているような気がして失望的な気分になってしまうのです。
ドラマでも歌番組でも、無理に観衆を「彼ら」が意図することに従わせようとする思惑が見えてしまうような気がして、見ていられなくなってしまったのです。
どれだけ伝わるかわかりませんが、説明しようとするならば、言葉として入ってくる情報と、言葉以外から伝わってくる情報のあまりの落差に呆然となってしまう、といった状況でしたから、これは、これまでは自分の中に存在していることは知っていても、自分の社会的な背景のさらに奥にに押しやろうとしてきた私の共感覚が、逆襲を始めているような感覚でした。

当然、夢もまたおそろしく活性化し、わけのわからないイメージを見せるようにもなりました。

異常に活発化した無意識の活動。それは並行世界にいるかのごとく、奇妙な夢を毎晩見るようになりました。その多くは切なく、辛いものでした。やがて私は膨大なイメージに囚われるようになっていきます。

異常に活発化した無意識の活動。それは並行世界にいるかのごとく、奇妙な夢を毎晩見るようになりました。その多くは切なく、辛いものでした。やがて私は膨大なイメージに囚われるようになっていきます。

「たまに、未来予知の夢を見る」というようなものではなくて、眠るとまったく別世界、あるいは自分のもう一つの並行世界にいるかのような強烈な夢を見るのです。
あまりにもイメージが強烈なので、夢日記をつけてみるようになりました。
そうしたところ、夢はさらにハードになっていって、私は次第に強い自己嫌悪に陥るようになりました。
やがて眠るのが怖くなり、起きれるだけ起きているようになりました。
当然、そんなことをすれば昼夜逆転します。
社会的に見たら、最悪の悪循環ですよね。
私は、なんだかすっかりダメになってしまっていたのです。


出奔、そして・・・不思議な邂逅

ダメになってしまうと、人は孤立していきます。世界との協調をあきらめるとき、人間は最も極端な行動をとるものです・・・。

ダメになってしまうと、人は孤立していきます。世界との協調をもはや完全にあきらめたとき、人間は最も極端な行動をとるものだと思います・・・。

そんな日々を続けていくうちに、次第に、
「自分の内面で起こっていることを、誰かに伝えることは不可能だ。
俺は誰にも理解されないだろう。

頭が狂っているのかもしれない。

なんという孤独。
・・・もしかすると、自分はこの世界に不要ではないのか?
存在してはならないのではなかろうか?」
などと物騒なことを考えるようになっていきました。
そして、10月の末、とうとう私はどこかで消滅してしまおう、と思い、出奔してしまいます。
本気でした。
本気で、有り金全部を預金から引き出し、長野方面に向かう電車に飛び乗ったのです。
・・・が、失敗します。
死にきれなかったのです。
死ねぬまま、私は自分の住んでいた街へと帰ってきてしまったのでした。
しかし、このような自分が現実世界に戻れるだろうか?と考えると不安でいたたまれず、アパートに帰るのがとてもためらわれました。
・・・ああ、なんということだ、自分はどうしたらいい?
と駅を出た後、ロータリーの前で呆然と立ち尽くしていると、不意に大学時代の同級生の女の子が現れて、会話を交わすうちに食事に行くことになりました。
二人で歩いていると、近所のこれまた当時唯一親しくしていた友人が不意に現れて、彼も一緒に三人で居酒屋に行くことになりました。
・・・これは、不思議な出来事でした。

偶然に過ぎないとしても、あまりにも不思議なことは、あるのです。私たちはどこかでつながっているのかもしれません。

偶然に過ぎないとしても、あまりにも不思議なことは、あるのです。私たちはどこかでつながっているのかもしれません。

私は彼らに、自分が死のうと思っていることなどは、なにも伝えていません。
偶然です。
しかしあの日あの時あの場所で、偶然に彼らが現れた、ということは、私にはどうしても単なる偶然と言い切ることができませんでした。
私にはこれが偶然だけで片付けられない、いわばユングが提唱しているシンクロニシティそのもの、なにやらとてつもないことが今まさに起こっているように感じられたのです。
これは、なにげないことなのに、非常に大きな出来事だったのですね。
そして、思いました。
「・・・世界は、繋がっているんだ。
本当に、人間はどこかと繋がっているのを、俺はもう疑わない。
今は、自分自身、こんな状況だけれども、自分は確かに、大きなつながりの中にいる。
本当に必要なことは、伝わり合い、必要な人や物事とまたきっと出会っていくのだろう。
もう、自分が隔絶された状況で世の中と折り合いがつかないとか、考えるのはやめよう」と。

ユング・易の本格的な研究が始まる

それから数か月は、私はこれまで上っ面しか読んでこなかった、ユング心理学の本を大量に読んで過ごしました。
人文書院が出している「ユングコレクション」は、ほとんどすべて読みました。

人文書院の「ユングコレクション」。私は当時、まるでユングの患者のようでした。「心理学と錬金術」は、大きな影響を受けました。今に至るまで、この論文が私にもたらした影響は大きいものです。

人文書院の「ユングコレクション」。私は当時、まるでユングの患者のようでした。中でも「心理学と錬金術」からは、大きな影響を受けました。今に至るまで、この論文が私にもたらした影響は大きいものです。

自分が直面している共感覚の暴走、夢の暴走といった現象は、ふつうの心療内科や精神科、あるいは臨床心理士などに相談しても解決はつかなく思われていましたが、どうもC.G.ユングは、私のようなクライアントをかなり専門としていたようで、そこにはほとんど私自身と思われる例とその考察が膨大な量、書かれていました。
「心理学と錬金術」というユングの著作は、中でも私には決定的な影響を与え、今に至っています。
ふつうの学生が読もうとしても、おそらくはほとんど意味が理解できないような、人間の内面にある象徴とその起源にまつわるお話です。
学生時代には難解で読めなかったユングの著作物でしたが、私は当時、まさにユング博士の患者のようになってしまっていたから、これがすんなりと読めたのだと思いますが、これは私自身に起こってきているさまざまなことについて、大きな理解と洞察を与えてくれたと今も思っています。

同時に、それまで書いてきた夢日記の内容というものが、少し分かるようになってきていました。

夢を見る、ということは無意識領域がコンタクトを求めていることです。私たちは無意識との対話を試みることで、多くのことを知ることができます。

夢を見る、ということは無意識領域がコンタクトを求めていることです。私たちは無意識との対話を試みることで、多くのことを知ることができます。

夢は、無意識という自分自身であって巨大な集合体のような領域でもある不可解なところから、象徴言語で伝えられるメッセージです。
中には、明らかに未来を警告するような内容もありますが、夢の多くは、あちらが私に対してなにかを教えようとするものであることに、私は気づき始めたのです。
その伝えたがっている内容から目を背けるのではなく、話を聴くことでのみ、無意識との対話や協調は成立します。
対話を試みるようになってから、私の夢は大きく内容が変化していきました。
さらに、私はこれまで遊び半分でやっていた易というものを、自分自身との対話という目的のために用いるようになっていきました。

人間の通常意識は、見えない角度がたくさんあります。夢や易といったものは、私たちが日常気づかずにいる多くの側面を照らし出します。それは無意識も含めたトータルな自分との対話の手段なのかもしれません。

人間の通常意識は、見えない角度がたくさんあります。夢や易といったものは、私たちが日常気づかずにいる多くの側面を照らし出します。それは無意識も含めたトータルな自分との対話の手段なのかもしれません。

夢は自分自身が寝ている間に見るものです。
しかし、易は起きている状態で、今の自分の置かれている状況や、内面での本当の願望や現状を垣間見せてくれるものであることを、私は疑わなくなっていきました。
今もそうなのですけれど、私は自分の方向性に迷いや疑いを感じるときは、一人で易を何度も占ったりします。
これは、自分自身が知ってはいても気づいていないことや、隠ぺいしていることをつぶさに垣間見せてくれます。
それは、夢がそうであるように驚くほどの示唆に富んでいると思います。

現実世界に戻る

やがて、私のそれまでの呪縛は自然と解消するにいたり、私はとりあえずはアルバイトで働き始めました。
夢の未来予知や共感覚がなくなったわけではありません。
共存するように変化していったのです。

現実世界への復帰。それは、自分自身との共存でもありました。

現実世界への復帰。それは、自分自身との共存でもありました。

世界は、すべてが繋がり合っていて、必要なものは向こうからやってくるもの、自分がこうあらねばならない、ああでなければならない、などと無理をしなくても、大きな必然性の中ですべては動いている、と感じられるようになってきて、私は無理なく来るべきものを受け入れていこう、という考え方に変わっていったのです。
自分の特殊な能力というか性質についても、それは多くの情報を自分に与えてくれているもの、他の人にはこうした感覚のことはわからないかもしれないが、自分はそれで多くのことを知ることができるのだ、ということで納得ができるようになっていきました。
こうしたことはユングの著作物の影響もあります。
が、考えてみると易経が占いということを通して目指す人間の在り方というのは、こだわってはいけない、自分を常に、どの方向から何が来ても、限りなく柔らかく、どの方向にでも自在に動けるようになりなさい、というものです。

易が目指す「中庸(ちゅうよう)」とは、あらゆるこだわりを捨てた在り方です。どのような展開にでも自在に対応していく一つの状態です。

易が目指す「中庸(ちゅうよう)」とは、あらゆるこだわりを捨てた在り方です。どのような展開にでも自在に対応していく一つの状態です。

易経を、自分に関する問いかけで占いながら読んでいくと、この書物は究極的には人間をこうした状態に導くために書かれているのではないか?と思われるようになります。
これを道教儒教が「中庸」と呼ぶのですが、その感覚というものを、ダメになった一年を通して知ったということは、非常に大きなことです。

そうして働き始めたアルバイト先では、また多くの貴重な出会いがありました。
そうするうち、私の運命は向こうからやってきました。

大きなつながりの中にいる私たちには、こだわりを捨てると扉が開くのかもしれません。世界は私たちが通常考えるよりもずっとある意味親和的なのかもしれません。

大きなつながりの中にいる私たちには、こだわりを捨てると次のステージへと扉が開くのかもしれません。世界は私たちが通常考えるよりもずっとある意味親和的なのかもしれません。そしてそれは常に私たちがトータルな存在になる方向を示しています。

焼鳥屋で知り合った社長からスカウトされ、まったく関係がなかった食品関係の世界に入り、営業販売を行いつつ全国を渡り歩くようになったのです。
そして、これまた運命なのでしょうが、台湾に渡ることになりました・・・。

まただいぶ長くなってきていますので、続きはまた次回にしたいと思います。

 

易経占い経営相談1:N子さん 52歳 女性 「未済=未完成・ミスマッチの時」

ここのところ、「易者の履歴書」ということで、筆者が易者などやっているわけを書いてきていますが、今回は最近ご相談をいただいた女性経営者の方のご相談をご紹介してみようと思います。
「易者の履歴書」は少し長くなりそうですので、じっくりと書いていくつもりです。

匿名お悩み相談:女性 52歳 N子さんのご相談内容

円安の影響をじかに受けて利益が出づらい食品小売り。スタッフ的には回るようになったけれど、このままじゃ・・・。新しい事業に乗り出してみるのはどうなのだろうか?近年、中小事業者に多く見られる深刻なお悩みです。

円安の影響をじかに受けて利益が出づらい飲食業・食品小売りの最前線。スタッフ的には回るようになったけれど、このままじゃ・・・。新しい事業に乗り出してみるのはどうなのだろうか?近年、中小事業者に多く見られる深刻なお悩みです。日本はどうなってしまうのでしょう?

「亡くなった父親が始めた店を引き継いで経営してきています。
引き継いだ直後はいろいろと大変で、店自体が回らなくなりそうなこともありました。
最近、スタッフもいい子たちが頑張ってくれるようになって、ようやく少しだけ安定はしてきています。
でも、コロナを乗り切ったかと思ったら、最近は原材料費や交通費、輸送費などがのきなみ高騰してきていて、昨年までと比べたら売り上げは上がってきているものの、なかなか利益が出ません。
なので、少し新しい事業展開を考えてみたほうがいいのかな・・・?なんて思っています。
今は観光地に隣接した商業施設で店をやっているんですけど、もともとの店でもなんかやったらどうだろう?とか、他の方面にも手を出してみようか?とか、いろんなことを考えます。
時期や状況的には、どんなものなのでしょうか?
コインを投げてみましたので、易者さんのほうで観てもらえないでしょうか?」

原材料の高騰は、スーパーでさえ顕著です。弁当や総菜の価格は軒並み上がってきていますが・・・原材料が高騰しているのですから、お店をやる方も大変です。

原材料の高騰は、スーパーでさえ顕著です。弁当や総菜の価格は軒並み上がってきていますが・・・原材料が高騰しているのですから、お店をやる方も大変です。

 

今回のN子さんは、これまでも事あるごとに易者が占ってきた方です。
総菜パンやお弁当などのお店をされています。
今回は、ご自分でコインを放った結果を易者に送ってきて依頼を受けました。

こういうお悩みの方は、今多いのではないでしょうか。
飲食業やお店をやってらっしゃる方は、コロナの時期はみなさん大変な思いをしてきています。
でも、このところの物価高がまた直撃しているのも飲食関係です。
コンビニなどでも、サンドイッチや弁当の値段が驚くほど上がってきていますし、これまで600円で食べに行っていたラーメン屋が、700円、800円とどんどん値上げしてきているのを身近に目にします。

円安の影響は、飲食店でも小売店でも原価を引き上げ、多くのものが値上がりしてきています。

円安の影響は、飲食店でも小売店でも原価を引き上げ、多くのものが値上がりしてきています。しかし、飲食店や小売店では値上げするにせよ、顧客を引き留めるために利益を削ってやっているところも多いのです。

 

日本は食料も7割以上を輸入に頼っている国です。
続く円安は政府の方針で金利を低く抑え続けてきていることが主な原因なのですけれど、輸出企業やグローバル企業にとってはいいのかもしれませんが、国内で地道な商売をやってきている人たちにとっては、深刻な死活問題となってきています。
原油価格が高騰している影響は、ガソリン代や光熱費の急上昇につながりますから、すべてが値上がりしていきます。
これは戦争の影響というよりも、産油国の減産継続の影響のほうが大きいでしょう。
でも、飲食業や小売業にとっては、100円で仕入れていたものの価格が150円になったから、では300円で売っていたものを450円にしましょう、というわけにはいかないのです。
なぜならば、日本の所得はさほど伸びていない場合がほとんどです。
人口も減少してきているので、お客自体がなかなか新規で取れませんし、また日本の付加価値消費を支えてきた団塊世代までのご年配の方が次第に亡くなったり、お買い物ができなくなってきているわけなので、ただでさえお客様単価が上げられません。
世代が若くなるほど、お金に余裕がないのが現代日本であるからです。
結局は、お客さんを維持するためには極力価格は上げたくないのが実情。
・・・そうすると、利益を削ってやるしか方法がありません。

本業がなかなか利益が取れない、となれば、生き残っていくためには新たな方向性を考えなくては、というのはもっともなところでもあります。
よろしいでしょう。
今現在がどうなっているのか?
今考えていることの見通しはどうか?
易で観てみるとしましょう!

実は、自分でも易の結果は見れる!

N子さんは、コインを六回放った結果を易者に送ってきました。
出た結果は、
1)表裏裏→2)表表裏→3)表裏裏→4)表表裏→5)表裏裏→6)表表裏
とありました。

さて、易経記号の復習です。
易経記号は四つのみ。
易経記号「爻(こう)」は、
・表表裏=陽=記号は「―――」
・表裏裏=陰=記号は「― ―」
・表表表=老陰(強い陰)=記号は「 ✕ 」
・裏裏裏=老陽(強い陽)=記号は「 □ 」
これだけです。

易経記号「爻(こう)」は、四つだけです。覚えてしまえば、自分で占いを行えるようになります。

易経記号「爻(こう)」は、四つだけです。覚えてしまえば、自分で占いを行えるようになります。

 

出た順に、下から積み上げていけば、易の表象である「卦(か)」が得られるのでしたね。
ただし、老陰(強い陰)=記号は「 ✕ 」と老陽(強い陽)=記号は「 □ 」は、二個以上出た場合は、占いはやり直し、というのが易者流の占いのルールでした。

 

ここで問題。
N子さんの出したコインの結果を、易経記号で書いて、「卦(か)」を出してみましょう!

 

答え。
N子さんの出したコインの結果は、易経記号で表すと、


6)上爻 ――――――――― 
5)五爻 ―――   ――― 
4)四爻 ――――――――― 
3)三爻 ―――   ――― 
2)二爻 ――――――――― 
1)初爻 ―――   ――― 

となります。
変爻(老陽、老陰)は一つも出ておりませんから、これで占いは成立します!

実は、ここまで出せれば、自分でも占いの結果を見てみることはできます。
易者が作成した、「64卦照合表」を見てください。

易者作成の64卦照合表から、自分の出した卦(か)が、どういう意味を持つのかを観ることができます。

易者作成の64卦照合表から、自分の出した卦(か)が、どういう意味を持つのかを観ることができます。

taikyoku2023.blogspot.com

カンのいい人は、お分かりかと思いますが、コインを投げて出た「卦(か)」は、上の三つの「爻(こう)」を「上卦」といい、下の三つを「下卦」といいます。
ここでは、上卦は、
上爻 ――――――――― 
五爻 ―――   ――― 
四爻 ――――――――― 
で、「離(り)」です。

上卦は「離」です。

上卦は「離」です。

下卦は、
三爻 ―――   ――― 
二爻 ――――――――― 
初爻 ―――   ――― 
で、「坎(かん)」です。

照合表で、これが合わさる場所を探せば・・・

下卦は「坎」、上卦「離」と合わさるのは・・・「未済」です。ここをクリックすれば、解説ページに出ます。

下卦は「坎」、上卦「離」と合わさるのは・・・「未済」です。ここをクリックすれば、解説ページに出ます。

未済(びせい)です!

この位置をクリックすれば、易者作成の解説へとリンクが飛ぶように作っているわけです。

対応する卦をクリックすれば、解説ページが出ます!

対応する卦をクリックすれば、解説ページが出ます!

実は、易者は、このブログを通じて、みなさんがご自分で自分自身と易を通じて対話する、ということが可能になることを目的の一つとしているのです。
解説はそのために、極力現代の感覚で書いたつもりなのですけれど、それでもご意見をうかがうと、「えー、むずかしいよ!」と言われます・・・。
なので、どのように考えたらいいのか?
ということを、知っていただくためにこういう匿名の相談を掲示していくのは必要だと考えているのですね。
では、今回のN子さんのケース、詳しく解説していくとしましょう。


未済(びせい)=未完成、ミスマッチな状況

未済(びせい)とは、未完成やミスマッチを意味します。しかし、完成よりも未来的で可能性ある状況でもあります。

未済(びせい)とは、未完成やミスマッチを意味します。しかし、完成よりも未来的で可能性ある状況でもあります。

N子さんが出した卦(か)は、「未済(びせい)=未完成、ミスマッチな状況」というものです。
どういうことか、解説します。
まず、易で占って出る「卦(か)」というのは、六個の「爻(こう)」が積み重なってできていますが、下から積み上げるので、下から順に初爻、二爻、三爻、四爻、五爻、上爻と名前が付けられます。
そして、このそれぞれの位置には、・・・入るにふさわしい陰、陽が決まっています!
このように決まっているのです。

<原則として陰陽が入るべき場所>

上爻→陰が入る場所
五爻→陽が入る場所
四爻→陰が入る場所
三爻→陽が入る場所
二爻→陰が入る場所
初爻→陽が入る場所

では、N子さんが出した、「未済(びせい)」の場合は、この原則からするとどうなのでしょう?

<未済(びせい)の場合>
6)上爻 陽→不正!
5)五爻 陰→不正!
4)四爻 陽→不正!
3)三爻 陰→不正!
2)二爻 陽→不正!
1)初爻 陰→不正!

なんと、陰、陽が入るべき場所が、すべて「不正」、正しくないではありませんか!
初爻から上爻までの位置は、実を言うと「社会的な立場」を表しており、陰と陽はその立場にいる者の「性格」を意味します。
陰=受動的性格、陽=積極的性格といった感じです。
たとえば、会社の役職で言ったら、こんな感じです。
なんとなく、わかるでしょうか?

<各爻(こう)の位置と役職、立場>

6)上爻 相談役(陰)
5)五爻 社長(陽)
4)四爻 役員(陰)
3)三爻 課長(陽)
2)二爻 係長(陰)
1)初爻 新入社員(陽)

陰、陽は、性格です。
それぞれの役職には、望ましい性格というものがありますよね?
積極的に最前線に立つべき立場があれば、控えめに調整やバックアップをすべき立場もいて、それで初めて会社とか組織というものはうまく回っていくものなのです。
新人は積極果敢(陽)に行動していかねばなりませんが、係長は、新人たちをうまく動かして仕事を覚えさせなければなりません。
自分が積極的(陽)に全部やってしまったら、新人さんは仕事が覚えられなくなってしまいますよね?だから、二爻の位置は控えめに自分では動かず調整する「陰」が望ましい役職というわけです。
課長は、責任権限を与えられ、外交的に商談でもプレゼンでも会社の実戦部隊の長、会社の「顔」として積極的に立ちまわらなければなりませんから、「陽」が望ましいわけです。
では役員は?そうした課長たちが仕事をしやすいように、裏で環境を整えて、社長とも調整を取らねばなりません。
だから、「陰」が望ましいわけです。

未済(びせい)の場合、字の意味は、「未だ済まず」、すなわち「いまだに未完成で完成しない」ですが、つまりは会社として考えた場合は、
・それぞれの部署の配置にミスマッチな人が配置されている
・あるいは各パートにいる人がその仕事を本来やったことがなくて不案内、慣れておらず、ぎくしゃくしている
・社長を含めて皆が現在修行中
というような状況を意味しています。

 

N子さんの場合

未済(びせい)を象徴する生物として、経験が少ない、若い子狐が登場してきます。冒険をして川を渡ろうとチャレンジするのですが・・・

未済(びせい)を象徴する生物として、経験が少ない、若い子狐が登場してきます。冒険をして川を渡ろうとチャレンジするのですが・・・

今回、N子さんの出したものは、老陽、老陰はひとつもありませんので、占断は、卦(か)全体の説明である「卦辞(かじ)」に表されます。

<卦辞(象徴の大枠解説)>
「未済は、物事は思うようにいくようになる。まだ若い子狐が川をほとんど渡ろうとして、最後にその尻尾を濡らしてしまい渡り切れない。これだといいことはない。(が、この経験を生かせば、次は渡り切るだろう。)」

 

※易者オリジナル解説より引用

未済(びせい)の場合象徴として出てくるのは、「子狐(こぎつね)」です。
経験が足らない、向こう見ずな若さを表しています。
「川を渡る」というのは、なにかに挑戦するとか、新しい冒険に手を出す、といったことを象徴し、易では頻繁に出てきます。
N子さんは、今現在、なかなか利益が出ない状況に直面し、なにか他の方向性を考えるべきではないのだろうか?と、経営者として考え始めています。
それが「川を渡ろうとする」という表象として表されているわけですが・・・
渡るのが、まだまだ未熟な「子狐」です。
これは、会社として見た場合、経験も力もまだまだの「子狐」のような状況を表しています。
「尻尾を濡らす」というのは、狐は川を渡るとき、尻尾が濡れないように高く上げて渡るのですが、その尻尾が最後濡れるということは、・・・溺れてしまうよ、ということ。

子狐は、川を渡ろうとして溺れてしまうだろう・・・が、しかし。未来的な暗示があるのはどうしてでしょう?

子狐は、川を渡ろうとして溺れてしまうだろう・・・が、しかし。未来的な暗示があるのはどうしてでしょう?

 

どうやら、今の段階で新しい方向性を進めたとしても・・・今の時点では、N子さんが考えることは、失敗してしまうよ、と易は言っています。
それだと、ろくなことになりませんよ、と。
易での判断としては、今はまだ新しいことに手を出す時期ではありません。
ただし、この卦辞は、そうであるにもかかわらず、「物事は思うようにいくようになる」とも書かれていて、見通しとしては決して暗いわけでもないのです。
どう考えたらいいのでしょうか?


N子さんへの提言

未経験者が多い中で、N子さんのお店は、ようやく軌道に乗ってきました。

未経験者が多い中で、N子さんのお店は、苦労しながらようやく軌道に乗ってきました。これは素晴らしいことです。

さて、この場を借りてN子さんにお伝えする事にしたいと思いますが、まず、N子さんのお店は、現在、ようやく各パートに人が入って回るようになってきています。
今の総菜パンやお弁当のお店を始められたころは、大変いろいろとご苦労なさっておられました。
易者はそういう経緯もある程度知っています。
それが、ようやく運営上は回るようになってきています。
そのこと自体は大変望ましいことです。
しかしながら、現在の状況は「未済(びせい)」、これまでの状況から易者が観るに、まだまだ発展途上の段階です。
ベテランさんがいないのです。
経験が不足するスタッフさんたちが、試行錯誤をしながら頑張って回しています。
それが、「すべての爻(こう)において、陰と陽のあるべき配置がさかさまになっている」というこの卦(か)に表されています。
会社として見た場合、まだまだ運営基盤がぜい弱です。
皆が、まだまだ学んでいかなければならないことがたくさんあります。
だから、仮に何か今、新しい方向性に手を出そうとしても、「子狐が川を渡ろうとして溺れてしまうよ」ということとなります。
結論的には、今の段階ではN子さんが考える方向性は「不可」です。
新しいことに手を出しでもすれば、「溺れる」ような結末となってしまうでしょう。

未完成だから、可能性もまた限りなくあるものです。完成されてしまえば、そこに発展はありません。

未完成だから、可能性もまた限りなくあるものです。完成されてしまえば、そこに発展はありません。

しかし、未済(びせい)に示される未完成、ミスマッチの状況というのは、実は未来に対しては非常に多くの可能性に富んでいます。
それは、ベテランさんが不在だから、みんなが試行錯誤しながら、仕事を覚え、開発していく、という貴重な「経験」を今まさにしているからです。
ベテランさんがいないから、新しいことを創意工夫します。
皆が力を合わせて頑張ろうとします。
これは、新しい無限の可能性があることを意味します。

だいたい、「完成された企業」の場合は、こうした要素が欠けています。
完成されたシステムの中でやっていくことは容易で楽です。
すでに決まったことを決められた通りにやればいいのですから。
だから、比較的楽に、安定した収入も得られます。
しかし、「自分でいろいろと考えて実行する」という創造的な仕事をしていく訓練がなかなかできません。
そういう意味では、N子さんのお店は、大きな実験室のようなもの。
いろんな商品を開発していくこともできるし、スタッフたちは「自分で考える」という大事な訓練を日々しているわけですし、固定観念でものを言うベテランがおらず未経験者が多いから、いろんなことを試すことができるのです。
これがあと二年、三年と経ったあかつきには、高い能力のスタッフたちが高いレベルの仕事をしていけるようになる環境と条件がそろっています。
だから、「物事は思うようにいくようになる」との判断が出てくるのです。

まずは、既存の枠組みの中で収益を高める方法を考えていくことが大事ですね。そして子狐さんたちを成長させなければ。

まずは、既存の枠組みの中で収益を高める方法を考えていくことが大事ですね。そして子狐さんたちを成長させなければ。

まずは、新規事業に乗り出す前に、現在の会社やお店の枠の中で、収益を高める方法を模索するほうがよいでしょう。
若い「子狐」さんたちに、アイデアを出させ、責任を持たせ、実行していく。
失敗するかもしれませんが、それは現在の枠の中でならば修正しながら皆が学べばよいのです。
そうしていく中で、「子狐」たちを、「大人の狐」にしていくのです。
それが新規事業も始める段階になったときに、今現在の子狐さんたちの試行錯誤の経験が生きてくるはずです。
まずは、足場をしっかり固めることを大事にしたらいいでしょう。


ミスマッチだから適性がわかってくる

この卦(か)のひと言アドバイス、「象」には、こうあります。

・・・そこで易のアドバイスとしては、この未済の時においては、物事の性質をよくよく観察して本質を見抜き、性質ごとに分類して整理していきなさい、と言います。
すべてがミスマッチしているということは、それで不都合が発生するから、それぞれの正しい性質がわかってくるという重大な時でもあります。
人事や相手先についても、ミスマッチからその本質がわかるならば、一度は失敗したとしても、次回には失敗の教訓を生かしてよりうまくやれるものです。
未済=ミスマッチとは、天に与えられた実験室のようなものです。
うまくいかないから、人は考えます。
この偉大なる実験の時を生かして、前例のない未来を切り開いていきましょう。

 

※易者オリジナル解説より引用

実は、「ミスマッチ」で手探りの現状というのは、適性が分かってくるいい機会でもあるのですね。
スタッフさんたちの個性や能力特性は、経験不足でミスマッチだからこそ、よくわかってくるのです。
ちなみに、今のポジションが、原則的に求められる性質とミスマッチすること自体は、必ずしも悪いことでもありません。
代表のN子さんからして、本来は自分から積極果敢に新商品を開発したりしていく「陽」であるべき五爻の社長さんのポジションに、調整型の「陰」として存在しています。
これは原則で言えばミスマッチです。
しかし、そういう経営者は、下の人たちに任せることでいいアイデアを出させたり、思い切って開発や運営の権限を与えてやれば、人を伸ばすことができる経営者ともなり得ます。

「ミスマッチ」な状況というのは、試行錯誤が発揮される偉大な「実験」の場でもあります。

「ミスマッチ」な状況というのは、試行錯誤が発揮される偉大な「実験」の場でもあります。

ミスマッチを、固定観念で考えてはなりません。
易者は思うのですが、陰の人が無理して陽になる必要はありません。
陽の人が無理して陰になる必要もないのです。
ただ、人事を司るN子さんの立場に求められることは、観察していって陽の人には、陽のポジションを与えてやること、陰の人には陰に相応しいポジションを与えてあげることです。
今現在の「実験室」では、それをよく観察していくのもN子さんの重要な役割です。
それができるならば、「陰」もまた、有能な経営者になるのです。

ミスマッチの中で、スタッフたちの「適正」を見極めて、生かしていくことが、そのまま明日への準備につながります!

ミスマッチの中で、スタッフたちの「適正」を見極めて、生かしていくことが、そのまま明日への準備につながります!

この卦(か)では、いろいろとミスマッチ、発展途上であるにもかかわらず、「物事は思うようにいくようになる」との判断は出ています。
しかし、そういう見通しというのは、自由意思により、「そうなるように実際に行動」して、それで初めて「物事は思うようにいくように」なります。
焦らず、足元を固めて、固定観念にしばられず、着実に。

着実に足元から鍛えていきましょう。それが、新しい方向性を目指すにしろ一番の近道となるでしょう。

着実に足元から鍛えていきましょう。それが、新しい方向性を目指すにしろ一番の近道となるでしょう。



それが、易が目的とする人間の在り方、「中庸(ちゅうよう)」です。
まだまだ大変ですけれど、未来的には明るい見通しは十分にあります。
だからN子さん、頑張ってください!


閑話休題・・・円安について

円安は原材料を輸入に頼る日本では、原材料の高騰で飲食業や小売業は厳しい運営を余儀なくされています。

円安は原材料を輸入に頼る日本では、原材料の高騰で飲食業や小売業は厳しい運営を余儀なくされています。

冒頭でも触れましたけれど、アベノミクスの一環として始められた量的緩和は、円の価値を大きく下げ、13年くらい前と比較して、ドルに対して円の価値は約半分になりました。
国際結婚者である易者の感覚では、かつては台湾元1元に対して、0.28円くらいであったのが、今では0.45円くらいですから、アジア通貨に対しても円の価値は半分に近づこうとしています。
こうした政策は、輸出企業にはメリットはあるでしょうし、これにともなう物価上昇はインフレを起こしますから、債務を実質的に減らすにはメリットでしょう。
しかし、高度経済成長期と違うのは、当時は輸出品の部品も多くが国内で製造され、また輸出産業も家電も好調で全体的に稼いでいました。
今はそうではありません。

今後の10年を考えた場合、N子さんが新しい方向性を探そうとすること自体は、当然のことだと思われます。

今後の10年を考えた場合、N子さんが新しい方向性を探そうとすること自体は、当然のことだと思われます。

 

下請け部品の多くを海外生産するようになり、パソコンなどのIT製品も多くが海外でのOEM生産です。
現在の円安は、一部の大企業や国際金融の立場からすればいいのかもしれませんが、国内だけで勝負しなければならない業種で見た場合、N子さんのような悩みを抱える方は非常に多いのです。
かといって、金利を上げれば、融資を受けた場合の利息も上がりますから、国内の中小企業、中でも飲食業、生鮮品小売りは利益がなかなか出ない中では融資を受けることもままならなくなりますし、ローンも組みづらくなってしまいます。
小売業はいい見通しがありません。
人口も減少の一途をたどっているから、このままいけば近未来には飲食関係を含め小売り業全体がピンチを迎えるのです。

少子高齢化の流れは、小売業や飲食業を根本から脅かす要因ともなっています。

少子高齢化の流れは、小売業や飲食業を根本から脅かす要因ともなっています。

長期的に見れば、なにか新しい方面を開拓していかねばならないのではないか・・・?というN子さんの考え方自体は経営者としては正しいのだと思います。
しかしまあ、今は我慢です。
ベテランがいない中で、まずは収益を上げれるようにスタッフさんたちの能力開発をしていくことが先決ですね。
それができるようになれば、本当の「能力」を持った集団ができるからです。日本の場合は、多くの分野で、「未完成での冒険」が出来なくなってしまっています。
ある意味、日本は「完成」による長い停滞の中にいるのであって、これは小手先でアベノミクスのようなことをして円を下げて量的緩和を行っても、一つも改善していないように見えます。

日本は、「完成」されて発展の余地がないのでしょうか?未来の鍵を握っているのは、若者たちです。

日本は、「完成」されて発展の余地がないのでしょうか?未来の鍵を握っているのは、若者たちです。

 

個々の日本人の能力は、この30年の間に大変低下してきているようにも見えるのです。
「完成」された環境に慣れ過ぎてしまっているように見えるのですよね。
こういう時代であるからこそ、「ミスマッチ」のなかで試行錯誤できる環境というのは、存外重要だと思われます。
高い付加価値というのは、完成された企業にいてもなかなか新規開発はできないからです。
特に日本はその傾向はあると思います。
ミスマッチの試行錯誤の経験の中からでなければ、本当の付加価値を創造する人間は生まれてこないのかもしれないのです。

とまあ、以上は一介の易者のたわごととしてお読みくださいね。


今回の卦(か)=「未済(びせい)」について

今回の卦(か)、「未済(びせい)」に関しての易者の解説については、リンクを貼っておきます。

taikyoku2023.blogspot.com


ご関心ある方はご覧になってみてください。

また、易経占いの基本作業をまとめたものは、こちらにリンクを貼っておきましょう。

taikyoku2023.blogspot.com

それではまた次回!

 

易者の履歴書 その2

易を説明しようとする場合、シンクロニシティという考え方しか現在はいい説明がありません。

易を説明しようとする場合、シンクロニシティというユング派の考え方しか、現在のところはいい説明がないように思われます。

みなさん、こんにちは。
さて、前回「易者の履歴書 その1」では、易者が夢の中での「未来予知」というような奇妙な能力に悩み、大学生になってこの能力が何なのかを調べていた際に、東洋経済史の授業で「易」のことを知った、という下りまでお話ししました。

yijing64.hatenablog.com


今日はその続きです。

 


アカデミズムと占い

大学の授業で、こうしたお話が出る、ということは私には新鮮な印象を与えました。
一般的に、前回もお話したように、日本の大学では文科系でも「科学」に基づいて講義がなされています。
「科学」というものは、原因があって、結果がある、という因果律でなりたちます。
そこでは、「占い」なんてものは、この「原因と結果」では実証できないものですから、そんなものが出てくること自体、大学っていうところじゃ、通常は「絶対タブー!」なんですよね。

科学として考えた場合、原因と結果で明確な再現性がないものは、科学の対象とはなりません。当然ながら、科学の対象でなければアカデミズムの対象にはなりません。一般論として。

科学として考えた場合、原因と結果で明確な再現性がないものは、科学の対象とはなりません。当然ながら、科学の対象でなければアカデミズムの対象にはなりません。一般論として。

もっとも、これは、東洋経済史の一環としての、中華世界の根底に流れる伝統文化を説明する上でのアイテムの一つとして行われた授業だったわけですが、実は大学っていうアカデミズムとしては、けっこうギリギリの線ではあったのだろうと思います。
しかし、非常に興味深いものでした。
大学の授業で、こうしたお話がなされるとは思ってもいなかったからです。
大学の授業は、堅いものが多く、知的好奇心を満たすという点では、私には退屈なものが多かったのです。
アカデミズムというスタンダードだけでは、世界には説明ができないことが多すぎる、という思いを常日頃私は抱いていましたから。
そんな中、自分の密かな関心である分野に触れている内容に、まさか出会えるとは思ってもいなかったのです。

 

この時、私は多くの情報を得ました。

・中華世界では、道教儒教共に、易経を根本経典としていること。

・易は占いの書であるが、今も実際に使われており、中国や台湾の財界人でもこれを用いている人は少なからずいる、ということ。

・1、0、の二進法で表される易の世界は、コンピュータサイエンスの基本にもなっていて、実はこの二進法があれば、言語も含め複雑な情報を伝達することが可能であること。

ニールス・ボーアの理論の発想が、易の研究から来ていること。

※これは、本当の話です。

ボーアは、ノーベル賞受賞にあたって、自分の紋章を易の太極マークに変更しています。

ja.wikipedia.org

・易の原理は、科学では立証が難しいが、C.G.ユングのチームは、シンクロニシティ共時性から説明を試みていること。

・遺伝子ゲノムのトリプレット構造と易が示す「卦」は、まったくシステムとしては同じ原理をもっていること。

コンピュータサイエンスは、易と同じ二進法で言語までも構成しています。この技術が実は易とも関係があることは意外と知られておりません。

コンピュータサイエンスは、易と同じ二進法で言語までも構成しています。この技術が実は易とも関係があることは意外と知られておりません。

さらには、その易の筮竹による占い方までも、授業では解説していました。

私は、話を聴きながら思いました。
・・・自分は、夢で未来世界で起こることを「知る」と思われることはよくある。
それは、科学では実証ができないことなのだが、現実に夢で見たシチュエーションがまったくそのまま現実で起こるということは、自分の場合は、確かにある。
それは、シンクロニシティということで説明ができるのかもしれないが、偶然のように見えて、世界は相互に関連性をもっているのかもしれない。
・・・ならば、易というのも、それで未来を知る、という点では似たようなものがあるのかもしれない、と。

 

最初の易占い

私は早速、書店に行き、授業で先生が参考文献として掲げた、本田済(わたる)さんの著作で朝日新聞社が発刊していた朝日文庫の「易(上)(下)」と、岩波文庫の高田真治さんと後藤基巳さんが訳を行っている「易経(上)(下)」を買い求めました。

本田済(わたる)さんの「易」と、岩波文庫の「易経」。対照的な内容構成ですが、実は易については「古典」として書店でも売られています。この二冊は比較的入手しやすいものです。

本田済(わたる)さんの「易」と、岩波文庫の「易経」。対照的な内容構成ですが、実は易については「古典」として書店でも売られています。この二冊は比較的入手しやすいものです。

また、自分でこの占いをやってみるには筮竹も必要だと思ったので、模型などを売っているおもちゃ屋に行き、竹ひごを50本買い求めました。

そして、夜、アパートで自分で易経の占いを初めてやってみたのですが、その時は今後自分がどういう道に進んだらよいのか、というようなことを占ってみた記憶があります。

出たのは、「小畜」だったと記憶していますが、さて、どんな事が書いてあるのだろうと、ドキドキしながら易のページをめくりました。

・・・しかし、なにやらまったく書いてある意味はわからず、ちんぷんかんぷんでした。

易は、本田さんの本も、岩波のものも、学者さんが書いていますから、専門的な解説でわかりづらいということもありましたけど、それ以前に、独特の用語が出てきますから、その意味がよく分からず、理解が難しかったのです。

また、学者さんの本ですから、学術的な古来の解釈のこととか、歴史的な照合性とか、そういうことの解説が多く、日本人で一介の薄っぺらい教養しか持ち合わせていない、当時のスタンダードな学生に過ぎぬ自分には、それを自分の身に置き換えることができなかったんですね。

あーあ、せっかく買ってみたのに、これじゃやっても意味がわからないなあ、と落胆しましたが、しかし少し思い直しました。

・・・そうだ、こういうものは、事あるごとに、占ってみたらいいんじゃないか?

易に関しては、最初から読んでいくのではなく、自分の気になることを実際に占ってみるのが理解への近道です。あるいは、そうする以外に読みようはないものです。

易に関しては、最初から読んでいくのではなく、自分の気になることを実際に占ってみるのが理解への近道です。あるいは、そうする以外に読みようはないものです。

今はちんぷんかんぷんだが、数をこなせば、ちっとは分かるようになっていくだろう。
ということで、その日から、迷うことがあるごとに、易で占ってみました。

当時の私は、悩みなどいくらでもありましたから。

就職活動をやって、内定をもらった銀行に行くことに、なにか自分自身の内部から「絶対ダメ!」といった予感があって、断ってしまっていましたから、改めて自分が生きていく方向性を決めなければなりませんでしたし、当時交際していた女性ともなかなかうまくいかなかったりもありましたし、実家関係の悩み事もありました。

今にして思うのですが、実は易という書物については、これが正しい「読み方」だと思います。

通常の書物は、A to Zで読むべく構成されています。

しかし、易については、そうではありません。

個々の表象が、羅列的に書かれているため、本来、体系的に読み通す種類のものではないのです。

また、その内容というのも、「象徴」として描かれています。

象徴は、接する人により無限の意味を描くものです。

自分に関することを占う中でしか、これら象徴の基本的な意味というものも理解することは困難だと思います。

結局のところ、易に関しては読み方があるとすれば、それは最初から前提としてまずは自分のことを占ってみる、ということでしか読みえないものだと思われます。

 

さて、そういうことを占ってみる中で、途中から筮竹を使うのは集中力を持続させることがなかなか大変なので、コインを投げる擲銭法のほうがやりやすいことにも気づきました。

筮竹には簡易法もありますが、一件占おうとすれば、少なくとも20分から30分はかかってしまいます。

その点、コインを投げるやり方は、短時間の集中でできますし、結果がよく分からない場合は、タバコを吸って考えを整理して、もう一度問うてみる、ということもできますからやりやすいのです。

半年ほどこれをやってみて、少しだけ分かってきたのは、・・・どうもこの易の占いというやつは、未来の吉凶を示すというよりも、自分自身の現在の内面状況だとか、生き方の方向性とかを「反映」しているものではないのかなあ?

ということでした。


易の占いは、自己投影?

「占い」ってことをみなさんは、どういうものだと考えますか?
一般的には、それは吉凶判断です。
最初に書きましたように、たとえばおみくじを引いて、「大吉」が出ればうまくいく、「凶」ならばマズいことが起きる、というのが一般的な占いです。
朝の新聞やネットの12星座占いを見て、その日の運勢が吉か凶か?というようなことは、そもそも最初に確定した「結果」だけがありますよね?
それに一喜一憂するのが一般的な「占い」というものなんです。

が、易の場合はどうもそういうものではなくて、むしろ易で占って出てくるのは、今の自分の投影で、自分の現状の内面を暗示させるような内容と、そのままで行った先の結果予測としての吉凶判断が示されているのではないのかな?と、毎日やってみるにつれてだんだん思うようになっていったんですね。

湖に写る空は、空そのものではありませんが、投影された空です。易も現状を投影します。ある種の鏡のようなものかもしれません。

湖に写る空は、空そのものではありませんが、投影された空です。易も現状を投影します。ある種の鏡のようなものかもしれません。

これだと、易でいう「占い」とは、むしろ「自己の投影」というほうが適切です。
少しずつ、用語の意味がわかってくるにつれて、この観察は正しいのではないか?と思うようになっていきました。
非常に不思議なことなのですが、集中した環境で、なにかを問う場合、易はかなり適切に今現在の自分の状況を示すような象徴を出します。
もちろん、それがどのようなメカニズムで発生するのか?については、科学的な説明というものはしてみようもありません。
しかし、偶然であるにせよ、ここに今の自分と易の象徴との関連性がかなりの頻度で起こってくるということは、帰納法的には無視できないことのように思われました。

そしてなんだか、そういう意味ではどこか、自分がこれまで経験してきた、夢の中の未来予知と、近いものがあるのを確信的に感じるようになったのです。

ちょうどこの頃、私は易と並行して、東洋経済史の授業で先生が易経のメカニズムとして話をしていた、ユング心理学の「シンクロニシティ共時性」という考え方にも興味を持ち始めていました。


シンクロニシティの考え方

シンクロニシティというのは、かなり大雑把に言うと、偶然ばったりと出会うことが、その時その時において重大な意味を持つとした場合、・・・そこには必然的な関連性や繋がりがあるのではないか?という仮説です。

シンクロニシティは、偶然と思われることになんらかの繋がりが存在するのではないか?との仮説です。

シンクロニシティは、偶然と思われることになんらかの繋がりが存在するのではないか?との仮説です。

たとえば、道でしばらく会っていなかった知り合いとバッタリ会って、話ついでに酒を飲みに行ったら、相手が今抱えている仕事の話をして、ちょうどだれか探してたから、お前がやんない?ということになって、そんなのをやるうちにそれが正式な仕事になっていくとか、こういうのを私らは「偶然の出会い」ともいいますが、それはまた「決定的な運命の出会い」でもあります。

たとえば、スキー場なんかでたまたま知り合った男女が、その後もお付き合いすることになって、その後、結婚して家庭をもつことになるとか、そういうことってそこら中にあることなんですけれど、これって「偶然の出会い」だけど、その後の人生を決定づける「運命の出会い」ですよね?

私たちは、全員が基本的には自分の自由意思で、好きなように行動して生きています。

そうする中で、たまたまのことがきっかけで出会いが発生し、そこから自分の人生ってやつが形成されていくんですが、後から考えたら、その出会いはたまたまだけども、まるでその出会いが「意志」をもってあの日あの時あの場所での出会いを導いたことで、その先の未来が作られていくんじゃないか?っていうようなことを感じたことはありませんか?

そもそも、人間世界は、「生まれる」ときからしてたまたま、両親の遺伝子をもって生まれてきます。

出会いというのも、そのほとんどは「たまたま」なんですが、それらの「たまたまの偶然」で人生というのは作られていくのですから、これは当たり前だとしても、ふと考えたらなんか不思議なことですよね?

話を戻しますが、授業で易と関連付けてシンクロニシティという概念を知ったので、ちょうど易の研究を始めたころから、私はユング心理学も改めて学ぼうと思いなおすようになりました。

この偶然の出会い=シンクロニシティというのは、その背後に、すべてのものがつながっている無意識の世界みたいなものがあって、必要な時に大きなこの無意識の塊の中から、必要な者同士が引っ張り合って、影響を与え合い、偶然にも思われる運命の出会いという現象は出てきているのではないか?とユングは考えています。
この、易とか夢の世界にもつながる、すべてが繋がった領域、膨大な情報の本体のことをユング派では「集合無意識」という表現をしています。

シンクロニシティの元としてユングが考える集合無意識は、サーバーとサーバー間ネットワークと考え方がよく似ています。

シンクロニシティの元としてユングが考える集合無意識は、コンピュータサイエンスにおけるサーバーやサーバー間ネットワークとそれに対するクラウドによる運用といった方法論と考え方がよく似ています。

つまり、コンピュータサイエンスではホストサーバーにあたるような領域が、人の意識の底にはあるのではないか?
そしてそこからのアクセスにより一見、偶然と思われるような出会いだとか、予兆とかといったものが出てきているのではないのだろうか?
と、これがユングの考えるシンクロニシティ共時性というやつだということを知りました。

ユングは、易については非常に強い関心を持っており、シンクロニシティの仮説と絡めて多くの言及を行っています。

どうやらユングは易の占いを、まったく無作為に筮竹を分けたり、コインを放る、という「作業」をする中で、このすべてがつながったホストサーバーのような「集合無意識」の領域にアクセスする方法の一つだと考えているようでした。

私が夢で「未来予知」のようなものを頻繁に見る、というのも、夢が無意識領域からくるものであることを考えると、これは易と同じ、無意識世界の「サーバー」のようなものとのアクセスからきている、という可能性はあります。

ユングの考え方はとても面白くて、私の易に対する観方と理解を大きく前進させるきっかけとなりました。

そうしたら、似たような「無作為の作業」から他にも無意識世界にアクセスする方法はあるのではないか?と考えた私は、タロットカードも買ってきて、研究を始めました。

ライダーズ・ウエイト・スミス版のタロットカード。自己投影仮説から見ると、タロットと易は非常に似たものです。

ライダー・ウエイト・スミス版のタロットカード。パメラ・コールマン・スミスの天才的なインスピレーションにより描かれた通称「ウェイト版タロット」は、大アルカナだけでなく、小アルカナにもすべて象徴的な絵が描かれています。自己投影仮説から見ると、タロットと易は非常に似たものです。タロットのほうが、絵柄からの象徴でわかりやすい面もありますが、易の象徴も非常にイメージに富んでいます。

タロットカードの場合は、象徴を示すカード枚数は少なく、絵でいろいろなことが象徴されるし、大アルカナといわれる絵札22枚でも占ってみることができるので、膨大な量の情報が漢語で書かれた易よりも分かりやすく、手軽だったのです。

この、タロットカードの研究は、その後の私の「象徴」に対する考え方を飛躍的に拡大させてくれました。

しかし、易もタロットも、まだまだ「お遊び」のような感じでした。

 

・・・これが、一気にユング心理学も含めて、深い理解を得るようになるのは、私が二十代後半に差し掛かって、仕事を辞めて生きる目的を見失い、フラフラすることになった「ある一年」が大きく関係しています。

端的に言うと、どう生きていくのか道に迷ってしまって、自分でもどうしたらいいんだか、完全に分かんなくなってしまっていた一年があったのです。

なんかだんだん長くなってきてしまっていて、こんな話を続けるとまだかかりそうです。
ちょっと、他のことも書きたいので、続きはまた次回にしましょう。

退屈な方は、飛ばしてください。

易者の履歴書 その1 

易者としての履歴をご紹介しておくことは、連載を続けるにあたって重要だと考えます。

易者としての履歴をご紹介しておくことは、連載を続けるにあたって重要だと考えます。

個人的な背景

改めて「易者のブログ」を連載していくにあたって、少しみなさんには説明しておいたほうがよさそうなことがいくつかあるのですけれども、・・・そもそも、どうして易者本人は、こういう古典的占いである易に詳しく、研究などしてきているのか・・・?
というあたりは、少しお話しはしておいたほうがいいような気がします。
易者としてのIDは、明確にしておきたいのと、また「占い」などというと、多くの誤解も生じます。
狂信的な人間でないのか?とか、ヤバい活動をしているんじゃないか?とか、思われることもある領域であることは、よく理解しています。
でも、私はそのような誤解とはおよそ正反対の人間で、狂信というような方向とはおそらく最も遠い人間であると思っています。
でも、誤解も受けがちであることから、あらかじめ、誇張のないところで易の研究をしてきた経緯はお話しておいたほうがいいと思われるからです。

幼少期からの悩み

まず、私は迷信だとかゲン担ぎとかは一切やらない人間です。
正当に社会科学を学び、科学的な思考のもとでこれまで生きてきましたし、今も生きています。
商売の世界に長らく携わってきましたが、ノーマルな感性で流通業界と取り引きしてきましたし、仕事ではいっさい易の話などはしたことはありません。
実家は数百年来の浄土真宗の家ですけれど、私自身は無宗教といってよく、なにか特定の宗教を信仰しているわけでもありません。
ある意味、こうした「占い」とは縁遠いような人間です。

そんな私が、「未来を占う」ということを、マジメに研究するきっかけというのは、極めて個人的な理由です。
あまり人に話したことはないですが、私は実は幼少時から奇妙な能力がありました。

・・・夢の中で、近日起こることが事前に分かってしまうということがよくあったのです。

幼少期から、夢で奇妙な人物や生物に遭遇したり、少し先で起こることを見たり、といった現象に頻繁に遭遇してきました。

幼少期から、夢で奇妙な人物や生物に遭遇したり、少し先で起こることを見たり、といった現象に頻繁に遭遇してきました。

これは、自分が「共感覚」といわれるものを持っていると思われることとも関連があるような気がしています。

共感覚」というのは、ウィキペディアから引用すれば、次のようなものです。

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、英: synesthesia, 羅: synæsthesia)は、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象をいう。

例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりする。複数の共感覚を持つ人もいれば、1種類しか持たない人もいる。共感覚には多様なタイプがあり、これまでに150種類以上の共感覚が確認されている。

共感覚を持つ人の割合については、昔は10万人に1人などと言われていたが、最新の研究では23人に1人というものもある[要出典]。

英語名「synesthesia」は、ギリシア語で「共同」を意味する接頭辞「syn-」と「感覚」を意味する「aesthesis」から名づけられた。感性間知覚とも。

 

ウィキペディアより引用)

私の場合は、映像と音楽の相互置換や、記憶と匂い、数字と人物、においと人物など、複数が相互置換される状況にあります。

音楽と画像イメージは強く関連しあっていて、色彩や情景に連動します。

かつて芸術学のゼミナールに所属していた時、音楽に対する映像イメージを話したところ、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた子から、

「音楽は音楽だから、そんな映像とは結び付くなんてことはない。

あなたは音楽がわかっていないからそんなことを言うのだ!」

と叱責されたことがあります。

ええ!と驚いたのですが、こうした「共感覚」と言われるものも、個体差があり、誰もが同じように世界を捉えているわけではない、ということを知りました。

しかし、夢で見ることに「意味」を象徴としてとらえる、ということはある種の共感覚とも関係はあるように思います。

が、人間は一人一人が閉じられている存在です。

私が見ている夢を、他者に見せることはできません。

したがって、こうした領域の話になってきますと、人間とはなんと孤独な存在なのだろう・・・?と思わざるを得なくなります。

完全に相手に伝えることができない領域になってしまうからです。

それが、いったいなんなのか・・・?

ということは、共有ができないので、だれかに尋ねることもできないのです。

なので、幼少期から私はこうした自分にひそかに悩んでいたわけです。

夢で「未来予知」と思われる現象に遭遇するのも、おそらくは完全に他者と共有することは無理でしょう。

でも、少しだけですが、具体的にどんな感じのものなのかは、具体例をあげておいたほうが読者の皆さんにはわかりやすいでしょう。

「夢が近未来を教える」という奇妙な現象

たとえば、ごく最近もこんなことがありました。

まず八月一日に、井の頭の親戚の従姉がなぜか夢に出てきて、
「これからお宮参りにいくの・・・」と私に言いました。
この従姉は、私より三か月早く生まれていて、歳はほぼ同じですが、何十年ももう会ったことはなく、普段、彼女のことを思い出すこともないのですが、この日は彼女は黒っぽい服を着ていて、金色に輝く世界にいました。
ふと見ると、階段があって、空中にどこまでも続いていて雲の上まで伸びています。
目覚めた私は、
「??どういうことだろう?なにか葬式でもあるのかな?」
とは思いましたが、縁起でもないことを口にするのははばかられるので、黙っていました。

それから二週間ほどしたお盆の前後くらいに、朝方、夢の中で誰かが、
「井の頭の叔父が亡くなったよ」
と私に伝えました。
母?あるいは亡くなった母方の祖母?のような人物。
影のように黒っぽく見えて顔までははっきりしないのですが、明らかに歳を取った女性です。
その影のような女性が私にそうはっきりと告げたのです。

夢で遭遇したおばあさんは、なんだか母のようでもあり、母方の祖母のようでもありました。その人物が叔父の死を私に伝えました。

夢で遭遇したおばあさんは、なんだか母のようでもあり、母方の祖母のようでもありました。その人物が私にはっきりと叔父の死を伝えました。

 

この叔父さんとも、もうかれこれ30年くらいはお目にかかっていませんし、この一家のことを普段考えるようなこともありません。
それがなぜか急に短い期間に続けて夢の中に登場してきました。

あ、これは本当に亡くなったのかもな、と思っていると、翌々日、井の頭の叔母から母のところに連絡が来て、
「井の頭の叔父が亡くなったよ」と母が私に告げました・・・。

 

実は、物心ついたころから、私はこういう経験をしょっちゅうしてきたのです。

それは学校での友人関係であったり、入学試験の結果であったり、取引先からの重大な通達であったり、家庭上の重大な問題だったり・・・夢のイメージで私はなぜか事前に結果を知っている、ということは、けっこう日常的なことでした。


東日本大震災の前日、前々日の奇妙な体験

東日本大地震の際も、強烈な経験をしています。

2011年の3/11が地震発生でしたが、当時私は県のイベントに参加して、出張で鹿児島に行っておりました。

3/9の夜から、なんだか体中にビーン!とした緊張のようなものが走っていて、体中が興奮していて、眠ろうとすると、眼下に暗黒のブラックホールのような巨大な穴が空いていて、そこにググッと飲み込まれるような夢?あるいはイメージが出てくるのです。

風呂にゆっくり浸かろうか・・・?と思い、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れると火花が出てライトの電球がバチン!と切れました。

フロントに電話して、照明の電球を取り換えてもらいましたが、全身がなんだか帯電しているようで、パソコンも突然ブラックアウトしてしまうし、なにかおかしな体調でした。

へんなものでも食べたのかなあ・・・?とも思いましたが、それでも疲れているのでその晩は朝方には少しだけうとうとしました。


しかし3/10の夜から3/11の明け方にかけては、この謎の緊張状態はどんどんひどくなっていって、少し眠りに入ろうとすればすぐに、ブラックホールのような暗黒がビーン!と出てきて、心臓がどきどきして、ビクン!と飛び起きるというような有様で、一睡もできませんでした。
まるで、「眠るな!」となにかに起きていることを強制されているかのようでした。

東日本大震災前の二日間、深海の底のようなブラックホールのような巨大な穴に、飲み込まれていくイメージで目覚め、一睡もできませんでした。身体にも奇妙な緊張が走っていて、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れるとライトの電球がバチン!と切れました。

東日本大震災前の二日間、深海の底のようなブラックホールのような巨大な穴に、飲み込まれていくイメージで目覚めました。特に3/10の晩はこの状況はひどくなり、一睡もできませんでした。身体にも奇妙な緊張が走っていて、バスルームの照明を付けようとスイッチに触れるとライトの電球がバチン!と切れました。

・・・ホテルの部屋で、自殺とか何かあるとこういう現象が起きる、とか昔テレビで見たことがあったものですから、3/11の朝6時頃、私は一睡もしていないボーッとした姿でホテルのフロントに行き、前日からの状況を支配人に話し、部屋を変えてほしい、とお願いしました。

支配人は、
「今お泊りの部屋は、別段、過去に不幸があったわけではなく、宿泊される方からこうした要請はこれまで一度もありません。

今日はすでにアサインもできてしまっていて、満室で変更ができませんから、もう一晩だけ様子を見てもらえませんか?もし、寒くて寝つきが悪いようでしたら、毛布を一枚追加で入れさせていただきますから」
と困ったような顔で言いました。

彼が言うのももっともな気がしたので、私は承諾して、一睡もしていないものだから頭がフラフラするのをコーヒーを三杯ほど飲んでなんとかゆすり起こし、とぼとぼとイベント会場へと出勤しました。

 

・・・昼過ぎ、イベント主催者側の担当が、
「大変だ!東日本ですごい地震が起こって報道されてるぞ!東京もかなり被害が出ているらしい!津波が来てるそうだ!」
と私たちのところに叫びながら現れました。
東日本大震災が発生したのです。

・・・あとは、みなさんご存知のように、津波で多くの方が亡くなり、福島第一原発は爆発を起こしました。

大震災が発生すると同時に、この数日間、頭の中にあったあのビーン!とするような緊張はなくなり、その晩からは同じ部屋にいるにもかかわらず、ブラックホールに飲み込まれるようなイメージは出なくなり、熟睡ができるようになりました。

重大な警告だったような気がしてなりませんが、科学的に言えばこれも「偶然」に過ぎません。

これらは、ほんの一例です。


これは能力なのか?それとも偶然なのか?

いわゆる「超能力」なのか?と言われそうですけれど、私自身は別段、幽霊が見えるとか、スプーンが曲げられるとか、これといったものはなく、ただ先になにかが起こると、それがどういう原理なのかはわかりませんけれども伝わって、夢の中で警告を発する、というようなもので、わりと頻繁にこういう一種の未来予知を幼少期より体験してきています。

自分自身では、もうそれはある種の「当たり前」の現象です。
幼い頃は、一人で遊んでいると、誰かの声が聞こえて、なに?と声を上げることもよくありました。
もともと、夢のイメージは強烈で、フルカラーでとんでもない非日常の情景を毎晩のように見るほうでした。

そこでは実在しない蛇のような生物にあったり、知らない人間も出てきました。

小学生くらいの頃は、こういうふうに夢を見て、先のことがわかって、ということは誰もがそうなのだろう、と思っていました。

・・・しかし、誰かに話しても、信じてもらえないばかりか笑われるだけでしたので、次第に、あ、これはみんながそういう夢を見てるわけじゃないんだ、と気づくようになり、中学生くらいからは誰にもこういう自分の奇妙な夢のことは話さなくなりました。

でも、あいかわらず夢の中で私は奇妙な一種の「未来予知」を経験し続けていましたから、大学生になるとこうした自分の夢を通じて体験してきている「現象」というものがいったいなんなのだろう?と知りたいと思うようになりました。

それで、いろんな本を読んで調べてみましたが、巷で売られている夢占いだとか、心霊関係とか、今でいう「スピリチュアルなもの」だとか、宗教に関することとかは、どれも論理的に飛躍がありすぎるように思われ、私に満足できる回答を与えてくれそうなものはありませんでした。

唯一、合理的に思えたのはフロイトの「精神分析学入門」でした。
フロイトは、夢のメカニズムを性的なコンプレックスに置いていて、確かに自分の夢の中にも性的「代償」としての夢と思われるものはけっこうありましたから、納得ができる部分はあったのです。
しかし、では、未来を暗示するとしか思えないような夢は・・・?
ということになってくると、それはフロイトの範疇を越えてしまいました。
というよりも、フロイトの場合は夢や心理的現象はすべて本能に根差した性的衝動を意識が押さえつける結果、コンプレックスのなせるワザとしてでてくるものだ、という理論を主張していますから、前提として未来の予知というような問題は「対象外」となってしまうのです。

ジークムント・フロイト博士の著作は、今や古典作品ですが、「夢」という主観的なものに「はたらき」があると初めて論理的に指摘した研究は、その後の心理学分野の大きな出発点の一つとなっています。

ジークムント・フロイト博士の著作は、今や古典作品ですが、「夢」という主観的なものに「はたらき」があると初めて論理的に指摘した研究は、その後の心理学分野の大きな出発点の一つとなっています。

そのようなことを、少し私の話に理解を示してくれていた友人と話していたら、それではユング心理学でものぞいてみたらどうか?と勧められました。
それで読んでみようか?とも思ったのですが、ユング博士の著作物というのはフロイトの「精神分析学入門」のような、決定的にまとまったものはなく、膨大なものが刊行されており、そのうちの一冊を試しに読んでみようとしたものの、概念の理解がフロイトよりもはるかに多岐にわたっていて難しく、大学1,2年生の当時の私はあっけなく挫折してしまいました。

それで、ひとまずは私は自分の夢に関する探索は取りやめることにしました。
私が学んでいた社会科学系の学校は、あくまでも「科学的」な学問を学ぶところでしたから、私が長年ひそかに悩んでいる「夢」のような主観的なものについては、真剣に悩んでいるとすれば眉唾扱いされる傾向はあったのです。
なので、なんらか自分のこういう夢のことが分かればいいなあ、とはあいかわらず思っていたものの、私はまた口を閉ざし、そういった自分の夢や未来予知ともとれる「偶然」に関する問題は封印し、切り札のないままにバイトに明け暮れ、当時のごくフツーの大学生活を送っていました。

社会科学の大学生をやっていれば、科学とは実証性があり、再現性があるから科学であることくらいはわかります。
私本人は、幼少期からの自分の夢を通じた未来予知のようなことに悩んできたものの、これを「能力」というには、あまりに主観的なことなので微妙であることも自分でわかっていましたから、こうした分野に関心をもつことでスタンダードから異端視されることを恐れたのです。
科学としてみたら、それは単なる「偶然」に過ぎないということも理解していました。
なぜならば、私の夢がどう見えているか?については、誰も検証できることではないのですから。


そうして私の学生時代は終わりに近づいていました。

 

そんな大学生活も卒業が近くなったころ、ある東洋経済史の授業で、中華世界の文化の根底に関する講義の中で易経の話が出ました。

たまたまでした。

それまで大学受験で世界史の教科書に「四書五経」というのがあって、科挙(中国歴代王朝の官僚登用試験)などでも必須であった、というようなことは知っていましたが、私はこの時初めて、その中で最古のものである「易経」が道教儒教の根本経典の一つとされていること、そして「占い」に関する書物であることを知ったのです。

 

それが、今回始めた易経占いブログにまつわるすべての始まりだったわけですが・・・少し長くなりそうなので、続きは次回にしましょう!

 

易経占い人生相談2:Bさん 36歳 女性 恋愛相談「人生の旅、出会い」

さて前回に続き、実際に占いのご相談を受けた方の中から、ご本人の承諾を得て、占いの顛末(てんまつ)をご紹介してみます。

今回は、女性からの恋愛相談です!

偶然再会した、前の職場の上司と最近なんだかイイ感じ。・・・でも、彼のほうが年下です。恋愛しちゃってもいいの・・・?

偶然再会した、前の職場の上司と最近なんだかイイ感じ。・・・でも、彼のほうが年下です。恋愛しちゃってもいいの・・・?

 

匿名お悩み相談:女性 36歳 B子さんのご相談内容

「恋愛関係の相談です。
最近、ちょっと一緒に出掛けたりして、イイ感じになっている男性がいます。
もともとは前の職場の上司だったんですけど、歳は私より六つ年下なんです。

最近、再会して、それでよく一緒に食事に行ったりして。


まだすごくのめり込んでるわけじゃないんですけど、イイ感じってのがあって、この人と本格的にお付き合いしていいのかな?って考えてみたりするんですけど、この関係がどんなものなのか、占っていただけますか・・・?」

 

さて、B子さんは、易者の知人を介して、夜9時ころ連絡がありました。
B子さんは現在は、易者に連絡してきた知人の店の従業員さん。
大和なでしこ風で黒髪ロングの、素敵なお嬢さんです。

恋愛相談は、比較的占いでは多いテーマとなりますが、B子さんは、ビデオ通話で拝見する限り、今回のお相手については行くか引き返すか?で真剣にお悩みの様子なのは伝わってきます。

高校生、大学生なんかだったら、とりあえず付き合っちゃえ!でいいんでしょうけれど、オトナの恋愛というのは、結婚の対象とするかしないか?
という重大問題ともかかわってきますから、イイ感じであっても慎重にならざるを得ないというのもあるんでしょう。

あと、このケースでは彼のほうが年下ですもんね。
相手の本当の気持ちが気になったりとかもあるでしょう。

 

よろしいでしょう、それでは、占ってみましょうか!

 

実は、易者は恋愛相談については、あまり受けないんです。

といいますのは、痴話話の延長のようなことが多くてですね、聞いてて、
「・・・結局、あなたはどうしたいのですか?別れたいの?続けたいの?結婚したいの?
あのね、占いってもんは、『どうしたいのか?』ってのがなけりゃ、する意味はないものなんですよ?」
って言わざるを得ないケースが多いわけです。

 

易者が思うに、「どうしたいか?」っていう点での真剣さがなかったら、とりあえずは現状のままで様子を見たらいいんです。
占う必要はまだありません。

 

しかし、B子さんは真剣です。
だから、お受けすることにしたわけです。

 

でも、これは大事なことなんです。

よく、「易って占いでしょ?そんなもん、当たるんですか?」と言われることもあるんですが、易者はこう応えることにしています。

「当たる、とあなたがおっしゃるのが、現在の状況を反映する、という意味でしたら、非科学的ですし、不思議ですけれど、当たりますよ。
ただし、占う方が真剣な場合に限ります。
自分の人生における問題で真剣に悩み、今後どうしようか迷う方ならば、この占いはそれに見合う反応をいたします。
冷やかしだと、易が拒否しますし、占ったっていいことには決してなりませんよ」

「易が拒否する」というのは、経験上、そうとしか思えない反応が出ることはけっこうあります。
が、これはまた後ほど。

 

LINEビデオ通話で占い!

今回はLINEビデオ通話での占いです。
コインを使う方式だと、実際に対面でやらなくても、依頼者が条件を整えてくれるならばどれだけ離れていてもできます。

ただしこの場合、依頼者にはやってもらわないとならないことがいくつかあります。

・50円玉を三枚ご用意していただきます。
・それを、塩でもんで、そのあとキレイに水洗いして、ティッシュ等で拭いてもらいます。
・塩は調味料入りはダメ、食塩か岩塩か海水塩です。
・未使用、あるいはキレイに洗ってある布を用意します。
・キレイに片付けたテーブルに、布をシワをのばして広げます。
・集中できる静かな環境、静かな時間でやるのが良いですね。

これだけなんですが、真剣にやれない方だと、これがなかなかやってもらえません。
その場合は、お断りするのが易者のポリシーです。

B子さんは・・・もちろん、ちゃんとすべて指示通りにやってくれました。


それでは、ご用意いただいた50円玉を布の上で落とすように六回、コインを振っていただきます・・・。

 

よーく、集中してやってください!

 

あ、基本的なことですが、コインというのは「日本国」と書いてあるほうが「表」となります。

コインの表裏は、「日本国」が入っているほうが「表」です。

コインの表裏は、「日本国」が入っているほうが「表」です。

 

さて、結果は・・・

1)表裏裏→2)表表表→3)表表裏→4)表表裏→5)表裏裏→6)表表裏

コインの出方と、易経記号「爻(こう)」の表記の仕方。四つしかありませんので覚えるのはカンタンです。

コインの出方と、易経記号「爻(こう)」の表記の仕方。四つしかありませんので覚えるのはカンタンです。

易経記号「爻(こう)」は、
・表表裏=陽=記号は「―――」
・表裏裏=陰=記号は「― ―」
・表表表=老陰(強い陰)=記号は「 ✕ 」
・裏裏裏=老陽(強い陽)=記号は「 □ 」
これだけです。
なので、出た順に下から積み上げていけば、易の表象である卦(か)はすぐ出すことができます。

 

易者の算木では、このように表示されています。

B子さんの占い結果を算木で記録していくと、このようになりました。

B子さんの占い結果を算木で記録していくと、このようになりました。

易経記号で表示すると、こうなります。

旅(りょ)

6)上爻――――――――― 上九
5)五爻―――   ――― 六五
4)四爻――――――――― 九四
3)三爻――――――――― 九三
2)二爻    ✕      六二◎ →ここが変爻の老陰!
1)初爻―――   ――― 六九

 

内容分析

 

さて、易ではコインを六回振ったら、一つの卦(か)が出るのですけれど、ご注意いただきたいのは、「変爻(へんこう)」の扱い方です。
変爻は、
表表表=老陰(強い陰)=記号は「 ✕ 」
裏裏裏=老陽(強い陽)=記号は「 □ 」
の二つです。

 

老陰は陰の一種、老陽は陽の一種で、64卦照合表でどの卦にあたるかを照合する際はそれぞれ老陰=陰、老陽=陽と見なせばいいのですけれど、

老陰、老陽は、一個でるか、あるいはまったく出ないか、が普通です。

なので、もし二個以上老陰、老陽が出る場合は、占いをやり直してもらい、最初からコインを改めて放ってもらうのが適当です。

 

理由はまた追って説明するとしますが、今回は六個の易経記号「爻(こう)」の作り出す表象、「卦(か)」は、「旅(りょ)」。

そしてご注目いただきたいのは、変爻が二投目で出ていること。

これは、マーキングサインで、占う方に対するダイレクトな答えがそこに書かれていますよ、という印です!

 

今回の場合、

まずB子さんの全体的な状況というのが、「旅」の全体説明である「卦辞(かじ)」に表され、

問題の彼とのことは、二投目にあたる、二爻目の説明箇所「爻辞(こうじ)」に表されている、と考えればよいです。

 

・全体の状況=「卦辞(かじ)」
・個々のケースの詳細状況=マーキングが出た「爻辞(こうじ)」

 

これが、易の原則的な使い方なんですね。

 

さて先ほど、老陰、老陽(変爻といいます。マーキングの意味)が二個以上の場合、やり直し!と言ったのは、こういうことです。

マーキングは、出ない場合は全体説明である「卦辞(かじ)」から判断すればよいのですけれど、マーキングは一か所でないと、正反対の意味がそれぞれマーキングされたりして、判断が「?????!」・・・・できなくなります。

 

二個以上の変爻(老陰、老陽)がある場合は、易者の経験上では、

・占い手が集中しきれていない
・問う内容が不適切である
・冷やかしで占いをやっている

といった場合が多いですね。※注

そう、易は、占い手を拒否する(ようにしか見えない)場合ってのがあることは確かです。

だから、そういう場合はコーヒーでも飲んで、気持ちを落ち着かせ、悩みの主題をよく考えなおして、冷やかしだった場合は、真剣に態度を改めて、やり直すのがいいのです。

非常に不思議ですが、易に問いかける態度が真摯になり、テーマが集中されると、ズバリ来ます・・・。


※注
ただし、変爻が複数出る場合の例外が二つ。
すべて陽でできている「乾(けん)」と、すべて陰で出来ている「坤(こん)」については、特別に全部が変爻(へんこう)である場合の、「用九」「用六」という特殊ケースがあります。
が、かなりの特殊ケースです。
30年で、それぞれ一回くらいしかこの特殊ケースは目にしたことがありません。

 

B子さんの場合

さて、まずは、B子さんの全体的な状況から見ていきましょう。
それを示す卦辞(かじ)には、このようなことが書かれております。

<卦辞(表象の全体説明)>

「旅は、少しだけ思うところはかなう。旅の時期にあることを認識してそれにふさわしい生き方をすれば、いい結果になるだろう。」

 

旅、小(すこ)し亨(とお)る。旅の貞あれば吉。

 

(旅、小亨。旅貞吉。)

 

※筆者自作の解説からの引用です。

「旅」というのは、自分の本当の居場所、本当の在り方を探し回る状態のこと。

そうした彷徨(さまよい)の時期というのは人間にはよくある時期ですけど、B子さんの現在の状況は、自分を探して試行錯誤している状態、ということです。

さて、人間が旅に出るとは、どういう行動なのでしょうか。

気分転換というのもあるかもしれませんが、それは今の自分に疑問を感じていたり、今の自分がどう生きていくかがわからなくなったりしているから、自分を見つめなおすために、未知の状況の中に身を投じる、というのが根底にあります。

そういう必要がない人は、旅には出ないものです。

旅先では、見知らぬ人たちの中を動いていくわけですから、謙虚に道を尋ねたり、見ず知らずの人に助けてもらったり、不測の事態が起こらないか注意を払いながら、なにごとも慎重に穏便にしなければなりません。

非常に気を遣う状況が「旅」なのですが、それだからこそ人は普段家にいたのでは気づかない多くのことを学びます。

また未知の状況の中で、自分がこれまで気づかなかった可能性に気づくことがあるかもしれません。

人間を完成させていく大切な時期なのです。

しかし、まだ自分の在り方が定まった状況ではないですから、卦の判断としては「少し亨る」=完全な物事の解決ではないけれども、少しいい結果への道筋が見えてくる、というものになります。

今の自分が、自分探しの段階にあることを自覚して、旅に出たときのように慎重にまた謙虚に物事を進める(=旅の貞)のであれば、吉=いい結果が得られる、というのが旅の時期への判断となります。

「可愛い子には旅をさせよ」とは古来いいますが、旅に出て見知らぬ土地で自分を探すということは、人間の成長に非常に重要なのは、古今東西変わりません。

B子さんは、今現在、自分が何者であるかをまだ探している段階にあると見て取れます。


以上は、全体的なB子さんの現状に対する投影です。

それでは、本題。

・・・今回の、気になる彼とは、どうなのでしょう?


二爻目の変爻(へんこう)がマーキングする「六二」の「爻辞(こうじ)」には、こうあります。

・二爻(陰位)
「六二は、旅の時にその宿に到着する。資金は十分にあり、まだ若い宿のボーイの配慮ある接待を受ける。悪くはない結果となるだろう。」

 

六二、旅のとき次(やど)りに即(つ)く、其の資(たから)を懐(いだ)く、童僕(どうぼく)の貞を得たり。

 

(六二、旅即次、懐其資、得童僕貞。)

さて、マーキングされた爻(こう)の表象イメージとしては、旅の時、ひとまず落ち着く宿に到着します。

資金は十分手にしているので、今後の心配はひとまずいりません。

宿で、「童僕(どうぼく)」=若い召使、ボーイさんが、いたれり尽くせりで世話をしてくれるので、いい滞在ができるでしょう。

 

インスピレーションですが、
・宿=現在の居場所=勤務先
・資金あり=勤め先がある
・童僕=問題の彼

という解釈でいいでしょう。

 

B子さんは、いろいろな仕事を経験し、自分の道を探す旅の途上にいますが、そんな中で現在の職場に行きつきました。
職場としては落ち着けるところです。
とりあえずは仕事もあるので、生活の心配はいりません。
そこで自分より若い「彼」が現れて、いろいろと彼女に気遣って世話をしてくれます・・・。

といった状況の反映ですね。

 

B子さんへの判断

「童僕(どうぼく)=若い召使いの男の子」が登場するなんて、まさに今回の占い手の状況にシンクロしていて、「まさか!」と思われる方もいるでしょうが、易では占い手が真剣な場合、こういうことは怖いほどよく起こってきます。

むろん、科学的には、「単なる偶然」に過ぎません。
が、しかしこういう現状との一致は、占うものが真剣であるほど、フツーに起こる、というのも嘘ではありません。

 

・・・さて、占いで観ると、この「彼」って、けっこうBさんには気遣いはしてくれる人なんじゃないのですか?どうですか?B子さん?

「まあ、そんな感じだと思います・・・」

でも、あなたはけっこう、冷静な人ですよね?
まあ、あなたが年上だってこともあるんだとは思いますけど、今現在って、そんなに夢中にのめり込んじゃってる、ってわけでもなさそうですよね?

「ええ、今はまだそんな感じだと思うんですけど、・・・本気で好きになっちゃっていいんだろうか?って、ちょっと悩んでて・・・」

さて、B子さんには、次のようにお伝えしました。


・・・まあ、わかります。

今は、B子さん自身が、自分を探している旅の中にいるような状態ですし、「彼」とは少し歳の差もありますから、どうしようか躊躇(ちゅうちょ)しちゃうのは当然でしょう。

それと、B子さん自身であるこの「六二の変爻」って、陰爻=わりと従順なタイプの人物像を意味しますから、本来はそれに対応するのは陽爻で、つまり積極的で強くリードしてくれる男性です。

つまりBさん本来の理想の男性像は、・・・そういう「男らしく」て、たくましい男性なのかもしれないんですが、ここで今回、ご縁がある対応爻(これはまた機会があれば説明します)の五爻、つまり六五の彼は、陰爻だから、スゲー男性的っていうタイプじゃあなさそう。

Bさんが恋愛対象の理想とする男性像からは、ちょっとズレてるのかもしれないですよね?

けどね、この「彼」は、けっこう真面目な方だと思います。
B子さん自身も、けっこう状況判断ができるバランス感覚の良い方だと思いますが、この彼も易の結果から判断すれば、同じようにバランスがいいタイプの方ですね。

「しもべ」とか「ボーイさん」のイメージが出てますから、B子さんには、気遣いしてサービスも一杯してくれるはずです。

旅ってのはね、いろんな経験をして自分の可能性を探るための行動なんですけど、一番大きいのは、
「新しい出会い」「偶然の出会い」
がある、ってことなんですよね。

旅先で知り合った、若く、尽くしてくれる想定外の男性、いいんじゃないですか?
ちょっと真面目にお付き合いしてみたら??
きっと、いい結果はついてくるんではないか、って易者的には思いますよ。

自分が最終的に、どこに落ち着くか?それが見えるまで人は旅の途上にあるのです。

自分が最終的に、どこに落ち着くか?それが見えるまで人は旅の途上にあるのです。

まあ、今は「自分探し」してる旅の状況ですから、未来がどうなるかってのは、易では出てきません。
それは当然。
今後、B子さんの自分探しの旅が、どういうふうに終わるのかによって、未来ってのはでてくるものだからです。

旅先に「定住」する場合だってあるのが「旅」なんです。

でも、それも含めて、まだ未来はどうなるか決まっていません。
だから、吉=ハッピーエンド!とはここでは出ないのです。

でもね、未来が定まっていない、ってことは、これから自由意思でデザインしていくこともできるわけで、自分で作っていけるから未来ってのはイイんですよね。

とりあえず「彼」とお付き合いすることは、B子さんにとってはハッピーな「暗示」は出ていると思います。
だから、付き合ってみる中で、ハッピーエンドになるように、自分でデザインしていけばよろしいのではないですか?

今はまだB子さんは彼のことをよく知らないし、彼もB子さんのことをよく知りません。
旅先の「偶然の」出会いですからそれはそう。
だから、ドキドキするし、未知だから、無限の可能性があるんです。

今後、お互いをよく知り合っていってですね、そんでここが大事なんだけども、

「彼に本当の誠意を感じられるならば」

・・・本気で命がけの恋愛やってみていいんじゃないでしょうか?

というのが易者的な今回の判断です!

 

ひと言アドバイス

ここまでお伝えしたところ、B子さんに最後に、

「あのー、・・・ほかにアドバイスってなんかありますか?」

って尋ねられました。

易経占いでは、それぞれの表象である「卦」には、その卦の卦辞っていう解説の後に、「象」っていうひと言アドバイスがついてるので、それを易者も必ず入れて解説を書いてるんですが、そこには、

ひと言アドバイス(象)

 

上卦である離の意味には、明察、賢く判断するという意味があります。

火が次々と山の上で燃え移るように、象伝のアドバイスとしては、刑罰をどんどん進めていきなさい、つまり物事を次々と決済し、貯めこまないようにしなさい、とあります。

やっておかなければならないこと、相手に言っておかなければならないことは、そのつどきっぱり処理してあとくされなくしていきなさい、ということです。

旅の時期は次々と新たな状況が発生するのですから、そのつどそのつど物事は決済していくのが大切なのです。

ってあります。

彼との付き合いでもですね、思ったこと、感じたこと、指摘しといたほうがいいと思うことは、そのつど貯めこまずにパッパッと処理しちゃったほうがよさそうですね。

B子さんはわりと穏やかで冷静な女性だと思うんで、指摘することもさっくりそのつどできると思います。

相手の方も、従順で温厚な人のようだから、それでうまくいくんじゃないかって思います。

どうぞご参考に!

 

後日譚

さて、その後、一週間ほどたったころのことです。
B子さんを易者に引き合わせた知人を通じて、B子さんから、その後の報告をいただきました。

 

「ひと言アドバイス」での、「思ったこと、感じたこと、指摘しといたほうがいいと思うことは、そのつど貯めこまずにパッパッと処理しちゃったほうがよさそう」ってのを参考に、「彼」と会った際に、

 

「自分とこうして会うことを、どう考えてるの?」

って、きっぱり言ったんですって。

 

・・・そしたら、彼から正式に「告白」されて、男と女としてちゃんと付き合うことになり、ラブラブになったとのこと。

 

・・・いやあ、よかったですねえ。

易者もうれしいです。
いや、恋愛ってのは、大事なことなんです。
恋愛をちゃんとしないとね、人間って男も女も、成長はできません。

人に配慮ができないし、人にやさしくなれないものです。

 

でもね、易占いっていうのは、こういうふうに、示されるのは現状だけなんですけれど、そこからご本人の自由意思がどう動くのか?っていうのが、未来に作用して、初めていい結果が出てくるんです。

易の本文には、ラブラブとまでは書いてなかったでしょう?
そこに至るには、自由意思と行動がいるからです。
B子さんが、自分から自由意思をもって動いたのです。
だから、ちゃんと付き合うことになったんですね。

易占いは、出た結果に対して、どう自由意思を働かせ、行動を起こすか?で得られる状況は変わってきます。

易占いは、出た結果に対して、どう自由意思を働かせ、行動を起こすか?で得られる状況は変わってきます。

何事もそうだと思います。
待っているだけでは、よほどの幸運がなければいいことは起こりません。
また、逆に窮地にある場合も、それを抜け出せるかどうかは、人間の自由意思にある程度は委ねられているのです。

でも、本当に良かった。
若いうちじゃないと、恋愛でドキドキしたり悩んだりって、できないんです。

これも偶然の出会い、でも、必然の出会いになるかもしれません。
それは、これからのB子さんと彼次第、いい未来をデザインしていくことを、心から易者は願っております!


今回の卦「旅」について

私の作成した解説のリンクを貼っておきます。
ご関心がある方は、のぞいてみてください。

taikyoku2023.blogspot.com


長いブログをここまで読んでくださった方には、感謝です。
ありがとう!

易経占い人生相談1:Aさん 53歳 男性 突然の出向・・・「小畜・密雲して雨降らず」

さて、今回は、実際に占いのご相談を受けた方の中から、ご本人の承諾を得て、占いの顛末(てんまつ)をご紹介してみたいと思います。

突然、告げられた出向命令。これまでの仕事とは全く異なる仕事内容・・・。このまま、片道切符では・・・?との不安。

突然、告げられた出向命令。これまでの仕事とは全く異なる仕事内容・・・。このまま、片道切符では・・・?との不安。サラリーマンは命令には逆らえませんが、残業も休日出勤もないので給与も減りますし、不慣れな化学薬品を使うから、体も心配。悩みます。

匿名お悩み相談:男性 53歳 Aさんのご相談内容

「工作機械を整備する会社に長年勤務しています。

先々週、急に会社から、系列の金属メッキ加工の会社への転属出向を言い渡されました。

労働基準には合った環境ですが、施設は古く、けっこう大変な仕事です。

この分野は素人なうえ、いろんな化学薬品も使うから、長くいたら身体によくないんじゃないか?って思います。

年下の同僚は、ここに行くことを命じられて、会社そのものを退職してしまいました。

ここへ出向する人を見てると、数か月(三か月から半年以内)でみな交替しているので、私もそんなに長くいるわけじゃないんだろうなあ、とは思うものの、元々の機械整備とはまるで違う仕事だし、残業とか休日出勤がないところなので稼ぎは少なくなるし。

上司に言って、別な部署に変えてもらおうかとも思うんだけど、辞令受けたばっかりで転属希望ってのもヤル気うたがわれそうで・・・言えません。

私はけっこう体力あるほうなんで、それを買われちゃって、ずっとここにいることになったらどうしよう?なんて考えると、なんだか夜も寝られなくなります。

最近、本当に体調もよくありません。

朝起きて、出勤時間になると吐き気がするし。

どうしたらいいんでしょう?

今回の出向はどんな見通しなんでしょう?

占ってみてもらえませんか?」

 

さっそくですが、易者が住まう太極庵古民家にかけこみのこんな相談がありまして、占いをする機会がありました。

 

うーん、サラリーマンやってると、こういうことってよくありますよね。

会社って、組織ですから、組織には組織の考え方ってもんがあって、それに従うのはサラリーマンの宿命なり!ってのはみなさん同じじゃないかとは思いますが。

この方の会社は、自動車関連部品の大手の系列で、それなりにしっかりした会社です。
福利厚生も基本的にはしっかりしてるんですが、現在、日本はかつてほど製造業自体がウハウハしてるわけでもないんで、今、会社も系列の会社の再編をやりながらいろいろと打開策を考えてるような状態らしいんですよね。


連絡があったのが夜9時前。


さっそく、太極庵古民家にきてもらい、話をいろいろと聞かせてもらったうえで、易経占いをやってみてもらうことにしました。

 


コインを使った占い!

筆者のことは、今後、「易者(えきしゃ)」と自称させていただきます。

さて、易者は長年の経験上、こうした相談者がいた場合は、筮竹(ぜいちく)は使いません。

筮竹を使う場合は、易者である私が扱うのですけれど、これだと時間が30分以上かかるうえ、その間に精神を集中させることも大変です。
また、易者自身の想念が反映されてしまう可能性もあります。
なので、易者は50円玉三枚を、占いを依頼する方ご本人に、6回放ってもらうというやり方をとっています。

コイン三枚で行う易占いは、「擲銭法(てきせんほう)」とよばれ、筮竹(ぜいちく)とともに古来行われてきたやり方です。易者は50円玉三枚を塩洗いしたうえで用います。

コイン三枚で行う易占いは、「擲銭法(てきせんほう)」とよばれ、筮竹(ぜいちく)とともに古来行われてきたやり方です。易者は50円玉三枚を塩洗いしたうえで用います。

これは、「投擲法(とうてきほう)」あるいは「擲銭法(てきせんほう)」といわれ、古来使われてきた方法の一つですが、

・比較的短時間の集中で行うことができる。

・占う人ご本人がコインを扱うわけなので、ダイレクトな結果が出やすい。

という点で、いいやり方であると易者は考えています。

 

国際結婚者である易者が、台湾の家族が出入りする台南の道教寺院に行くと、道士である住職がいつも笑いながら、
「日本人、よく来たな!」
と訛りの強い閩南語(台湾語)で言って、日がいいと占いをやってくれることがありますが、その道教寺院では貝に模した木片を、占い手が立ち並ぶ神々の像たちの前で床に投げる形で占いが行われています。

台湾の道教寺院は、易占いも行われ、人々はシンクロニシティを信じています。易者はこの世界に触れたことで易への認識が大きく転換するきっかけとなりました。

台湾の道教寺院は、易占いも行われ、人々はシンクロニシティを信じています。易者はこの世界に触れたことで易への認識が大きく転換するきっかけとなりました。

そうした経験を経て、易者は50円玉三枚を、占い手に直接放ってもらうやり方をするようになったのですが、一般の方に易経占いをやってもらうには、このやり方が一番いいように思っています。

 


レッツ・トライ!


この方、Aさんは、易者とは長年の付き合いなんですが、この占いを受けるのは、今回が初めて。

Aさんは、ヒジョ―に緊張したおももちで、いたくまじめに、コインを両手に持って、振り始めます・・・。

あんまり真剣なんで、こっちもややキンチョーしてしまいます!

さて、結果は、次のように出ました。

一投目 表表裏
二投目 表表裏
三投目 表表裏
四投目 表裏裏
五投目 表表裏
六投目 表表裏

・・・Aさん、お疲れ様でした!

真剣にやっていただき、ありがとう!

 

さて、これを、易経記号「爻(こう)」で表してみますと、次のような結果としての表象、「卦(か)」を得ることができます!

算木でAさんの投げたコインの出方を記録していきますと、こういう形になりました。

算木でAさんの投げたコインの出方を記録していきますと、こういう形になりました。


小畜(しょうちく)

=少し蓄積する時期、少し引きとめられ主流から外れる時期、という意味。

――――――――― 上九

――――――――― 九五

―――   ――― 六四

――――――――― 九三

――――――――― 九二

――――――――― 初九

今回のAさんの問いに対して、易経ではどのような見解が出ているのでしょう?

 


易経の読解

易経は、内容として64個の表象イメージ「卦(か)」で構成されています。
それぞれの表象イメージは、易経記号である爻(こう)を六個積み重ねた形で表されます。

陰と陽を六個重ね合わせたものが、易の表象イメージ「卦(か)」です。数理的に64通りあります。

陰と陽を六個重ね合わせたものが、易の表象イメージ「卦(か)」です。数理的に64通りあります。(上記の表は易者のオリジナルです。)

 

易経記号である爻(こう)では、

陰=「― ―」と表示され、
陽=「―――」と表示されるんですが、
陰陽六つでできる組み合わせは数理的にきっかり64通りです。

 

お察しのいい方は、
「あー、コインの表が二つの裏が一つだと陽、表が一つで裏が二つだと陰か!」
と、すぐ気づくと思います。

そう、その通りです。

 

・・・しかしですね、コイン三枚を一緒に放ったとした場合、他にも裏表の出方はありますよね?
今回、Aさんの占いでは出ておりませんけども、他に「表表表」と、「裏裏裏」という可能性もあります。
それらは、

 

「表表表」=老陰といって、強い陰を表し、

易経記号は「 ✕ 」となります。


「裏裏裏」=老陽といって、強い陽を表し、

易経記号は「 □ 」となります。

 

しかし、それが出る場合は、また実例あるときご紹介するとしましょう。

 

とにかく、今回は「表表裏」と「表裏裏」だけの組み合わせで、出た表象は「小畜(しょうちく)」、この表象は、どんな意味をもっているのでしょうか?

 

易では、それぞれの表象である「卦(か)」には、「卦辞(かじ)」という、古来の表象が描かれているんですが、

 

ここでは、こんなことが書かれております。

 

<卦辞(象徴の大枠解説)>

「小畜は、(願うこと)通る。雲が集まってきてはいるけど、まだなかなか待望の雨は降らない。今は、都の郊外に潜んで、チャンスがくるのをじっと待つ」

 

小畜は、亨(とお)る。密雲して雨ふらず。我が西郊よりす。

 

(小畜、亨。密雲不雨。自我西郊。)

 

※この大意訳は、私易者自身のオリジナルです。

 

 

Aさんへの判断

さて、みなさんにお断りしておきたいのは、易による占いは、単純な「吉凶」の予言ではないということです。

むしろ、コインを放ってでてくるものは、その方が今悩んでいる今の「状況」の反映といったほうが正しいと思います。

まずは、易に書かれた表象と、易に問うている占い手の状況とを、結びつけて解読する想像力と、そこから指針となるべきことを見出すインスピレーションが必要となります。

 

しかし、それはあくまでも「現在」の状況なんであって、仮に「亨(とお)る」=「見通しとしては思うようにいく」という判断が出てきているとしても、未来は現状とは異なる可能性はあります。

なぜならば、未来に至るためには、そこには現状を認識した占い手の「自由意思」が介在してくるからです。

 

人間というのは、自由意思を許されていますから、現状のままでいくこともできるが、自由意思で現状を変更することもまた可能なのです。

また、思うようにいく、と出ていてもそれには条件が付けられていて、自由意思により条件を満たすことが必要なケースは多々あります。

逆に、現状の易の結果では、見通しが非常に塞がっているとしても、自由意思により現状が変れば、未来も変わることにもなるでしょう。

いずれにしても、易が占いとして反応する場合、まずは現状が示され、これを今度はどうとらえて本人が今後どう行動するか?が、結論的に重要になってくるのです。

 

そういう意味で、易は一般的な「吉凶を判断するだけ」の占いとは異なります。

易者は、現状と表象の関連性から、暗示されることを占い手に伝えねばなりませんし、占い手はそれを聞いたうえで、自由意思でどう行動するか?が求められます。

これが占いとしての易の特徴の一つだと易者は考えています。

 

さて、そういう前提の下で、では、Aさんのケースについては、どう考えたらいいのでしょうか?

 

まず、「小畜」というのは、「しばらくの引き止め」とか、「しばしの左遷」とか、自分が本来いる場所から引きはがされて、不本意な状況にしばらくの間、いざるを得なくなる、という意味合いです。

小畜は、「密雲して雨降らず」、思うような結末に至るには、相手との溝があって、しばらくは不本意な左遷状況や孤立状況になることを暗示する表象です。

小畜は、「密雲して雨降らず」、思うような結末に至るには、相手との溝があって、しばらくは不本意な左遷状況や孤立状況になることを暗示する表象です。

うん、まさにAさんの現状ですね。
Aさんは、本来は工業用機械のメンテナンス職人さんです。
本来は工作機械をクリーニングして整備するのが本業なわけですが、今回の辞令は、まったく門外漢の「メッキ加工現場」への配属、本来あるべきところじゃないところへやられてしまっている、という現状はまさに「小畜」そのものですね。

 

この話を読まれている方の中には、
「そんなに都合よく、状況に近いものが出るはずはないんではないの・・・?
どうせ、テキトーに話を作ってるんでしょ?」
と思われる方もいるかもしれません。

 

ですが、これは事実、Aさんがコインを放って出たものです。
易では、占うものが真剣な場合、易者の経験上ではだいたい8割以上の確率で現在の状況との関連をにおわせる卦(か)が出てきます。
もちろん、脈絡がよくわからないものが出る場合もありますが、その場合は悩んでいることを整理したうえでやり直せば、状況に近いイメージが出ることが多いです。


あくまで易者の経験上ですが、これは非常に不思議なことです。

 

「雨ふらず」というのは、易では物事が進展するのは、陽と陰の結合であり、雨が降り、新しい展開が始まって、世界に恵みをもたらすと考えます。
「密雲して雨ふらず」ですから、ここでは自分の希望が通りそうでいて通らない、これはつまりは会社側とAさんの希望とは見解の違いがあって、Aさんの希望通りにはいかない=和合しない、という暗示があります。

 

希望の線に達するには少しまだ待たねばならない=雨雲はあるのだけれども、まだ雨が降らない、という現状の暗示ですね。

復帰するには「しばらく」時間がかかるから、待たねばならない、という意味でとらえたらよいでしょう。

 

「我が西郊よりす」というのは、「左遷された先で、しばらくおとなしくして従い、考えを巡らし、次の機会を待ちなさい」ということを表します。
これは、易では他でも出てくる常套句なんですけれど、次のようなお話に由来しています。

 

・・・その昔、古代中国に殷(いん)という強大な王国がありました。
配下に多くの小国を従えていて、そのうちの一つに周(しゅう)という国もありました。
周の王は、当時、文王(ぶんのう)と呼ばれる人で、賢明で良政を行い、住民たちからも慕われていました。
ところが、当時、宗主国である殷(いん)の帝王は、有名な暴君として知られる紂王(ちゅうおう)で、この帝王はなにか気に入らなければ家臣でも属国の王でも平気で殺すような人物でした。
文王は、あるとき紂王からあらぬ疑いをかけられて、身柄を拘束され、羑里(ゆうり)というところで幽閉されてしまいます。
ここは、周の西の郊外でした(だから、西郊といいます)。
この地で、何年にもわたり、不自由な抑留生活を余儀なくされることとなったのです。
しかし、文王は、絶望はしませんでした。
この間、易を研究して、易経の大元(おおもと)というべき「卦」と「爻」の表象テキストを書いて哲学的な研究を行い、この窮地を抜け出た後の世界をどう運営していくかに考えを巡らした、と伝承されます。
そのためでしょうか、易の本文の作者は、伝説的には文王ということに昔からなっております(学術的にはそうではないようですが)。
やがて幽閉を解除され、周に復帰した文王は、幽閉されていた時に温めていたアイデアを次々と実行し、小国だった周はどんどん国力をつけていきます。
周はやがて殷に肩を並べる強国へと成長していきます。
そして文王の死後、国力を充実させた周は、文王の子である武王が革命戦争を起こし、ついに暴君・紂王の殷を倒すことになりました(武周革命)・・・。

 

「わが西郊よりす」というのは、易では「周の文王のように、しばらくは主流を外れて自由を奪われ、不遇な時期を送ることになるだろうが、絶望しないでその間に今後のアイデアを整理して蓄えなさい」という意味で出てくる、常套句です。

 

さて、易で得られたこうした表象からは、Aさんは、今しばし、不本意な状況に置かれることになるだろう、と読めます。
ですが、「亨る」=自分の思うように事は進んでいくだろう、との判断がはっきりと出ていますから、いずれそう遠くない時期に、出向は解除されると思われます。

 

それは年内か?それとも年明けかは分かりませんが、これまでの前例を聞く限りでは・・・なんとなく半年?というような予感がしました。
まあ、それは易者のインスピレーションですが、そんな気がしました。

でも、会社の人事の立場で考えるならば、まったくAさん本人の職能やそもそもの雇用条件と異なるところに行かせるのですから、そんなに長期にはできないですから。

 

易の表象説明には、「大象(象)」といって、表象に示される時期へのひと言アドバイスがつけられています。

それには、この時期は「君子はもって文徳をよくす(べし)」とあります。

今の時期は、おとなしくして自分のなかに蓄えを作る時期です。
つまり、自分の考えをノートに書いてみるとか、本を読んだり映画を観たりしながら、今の自分のこと、これから先のことを考える充電の時期だと考えるのがいいよ、ということです。

それがチャンスが来たとき大いに役立つはずです。


さて、易者からはAさんには、次のように伝えました。

 

・・・しばらくは不本意な状況で本職を外れることになる、と出ていますね。

だけど、「小畜」は「しばしの間、とどめられる」ですから、ずっとそのまま、というわけじゃおそらくなさそうです。

お話をうかがう限り、会社のこれまでの例で考えたら、年内くらいは辛抱しないとならないかもしれません。

あなたが配属されたポストはおそらく半年以内くらいを目安に、交替で出向者を送って現在は回している部署なんです。

会社の事情もあるのだろうから、三か月から半年は、徴用されることになるんではないかな?

いろいろとご不満もあるでしょうけれど、希望する職域に戻るにはまだ少し時間がかかります。

ですが、ここに行っている間は、残業や休日出勤もないわけだから、いろいろと考えたり、自分のことに使える時間があります。

それを生かして、家のことをやるとか、家族と過ごすとか、これまで出来なかったことをするとか、自分がしてみたかったことをやってみるとか、復帰した先に生きてくるようなことをなにか始めたらいいのではないでしょうか?

「少しとどめられる」のが小畜なんだから、今はおとなしく従がっていれば、じきにこの出向は終了すると思う。

だから、今は我慢しながら、充電期間だと考えて、自分のことや家族のこと、またこの先の準備に時間を使いましょう!

「亨(とお)る」=願うことは思うようにいく、って出てますから、じきに元の職場に復帰することはできるでしょう。

元気を出して!

 

 

後日譚

さて、それから10日くらいたったころ、近所のスーパーでAさんとばったり会いました。


Aさんが言うには、

「なんか、本当に出向先にしばらくいるのか?と考えると、夜もよく寝られなくて、体調もおかしくて。
心療内科に行ったら、『適応障害』だって言われて、診断書出されて、それでしばらく会社を休職することになりました・・・」

 

え!! 休職・・・。

 

どうやら、占いで出てきていた「しばらく引きとどめられる」っていう表象は、出向先に引きとどめられる、ってことから、「休職」へと変化したようです。

50歳を過ぎると、これまでの人生に変化は生じてくるものです。「小畜」は「左遷」や「幽閉」ではありますが、有効に使えば、今後を考えるいい機会にもなります。

50歳を過ぎると、これまでの人生に変化は生じてくるものです。「小畜」は「左遷」や「幽閉」ではありますが、有効に使えば、今後を考えるいい機会にもなります。

まあ出向先にそのまま勤務していてもこの場合は「とどめられる」状況のわけですが、Aさんは、結果的に、出向先で「とどめられて過ごす」こと自体を体調から拒否した形となりました。

そこには占いの結果に対する自由意思も作用しているように思われます。

 

でも、結果的には不眠や胃の不調を抱えてまで出向先で我慢するよりは、自分に正直に休職するほうがいいのかもしれません。

いずれにしても、「小畜」の意味合いとしては変わりません。

結果判断としては「亨(とお)る」ですから、しばらく休職で、ある種の「幽閉」状態とはなるでしょうが、本来の方向性に復帰はできるのではないかと易者は見ています。

 

・・・その後、Aさんは、草刈りをしたり、ウォーキングをしたり、自転車に乗ったりしながら、おかしくなってしまった体調を取り戻そうと療養をしていましたけど、先日、職場の友人から連絡が来て、「辞令が出て、出向が解除されて業務部付けに変わった」とのこと。

が、調子は相変わらずおかしく、まだしばらくは休職を続けるそうです。

 

「おそらく」ですけれど、休職するにしても、元々、「とどめられる」時期=小畜ですから、だいたい出向のままでいた場合と、同じ程度の期間が必要ではないか?と、そんな予感はあります。

 

しかし、どの道、易での占いでは、「充電期間」として使うべき時期というイメージがでていたわけですから、自分の来し方行く末を考えたり、こういう時期でしかできないことをやっていってほしいものです。

 

今回の充電期間で蓄えた英気を養って、復帰された後、周の文王みたいにいっそうご活躍されることを祈っております!

 


易の内容について

さて、実は易者は今年、これまで30年の経験と研究を生かして、易経について自分なりの解釈を書いてみよう、と思い立ち、Googleさんのブロガーを使い、64卦の解説を作成しております。

自分の裏の顔、易者としてこれまでの研究を総括するべく、また相談者の方にわかりやすく示すために、ネットで提示できるものを、と考えて作成したものです。

taikyoku2023.blogspot.com

リンクを貼っておきますのでので、占い方や易経の内容そのものにご関心がある方は、のぞいてみてください。

また、今回のAさんの占いで出てきた「小畜(しょうちく)」についても、ここに私のオリジナル解説ページのリンクを貼っておきますね。

taikyoku2023.blogspot.com

なお「みんなの易経占い!~易者の易経講座」は、内容解釈等は易者の完全なオリジナル著作物です。

 

私流に、易の儒教の解釈である「彖伝(たんでん)」の内容を反映させ、卦辞、爻辞の解釈を施しています。

 

また、易の基本的な考え方や、占い方についても解説を書いております。