易者のブログ

みんなの易経占い!

易者の履歴書 その4

易者の履歴書 その4

「易者の履歴書 その3」まででは、易者が20代を通じて自分の易学の基礎というべき体験をしてきたことをお話ししました。

yijing64.hatenablog.com


今日はその後のお話です。

「神が死んだ」世界

ニーチェは、現代人の知性の向かう先を、「神が死んだ」世界とし、神に代わる価値を探そうとした人物です。最後はこの難題に耐え切れず、発狂するという悲劇的な生涯を送りました。

ニーチェは、現代人の知性の向かう先を、「神が死んだ」世界とし、神に代わる価値を探そうとした人物です。最後はこの難題に耐え切れず、発狂するという悲劇的な生涯を送りました。

近代から現代にかけて、私たち現生人類の世界観というものは大きく変化しました。
数値的に実証性のあるものを究明することで、「近代科学」というものができてきて、それにより様々なことが明らかになり、また様々なものが作り出されるようになります。
蒸気機関の開発はやがてはタービンによる電気の発生と電気による照明や様々な機器の開発につながっていきましたし、いろんなものの化学組成を研究することはプラスチックをはじめ様々な人造の材料を生み出すことになりました。
病気の原因としてのバクテリアやウイルスが解明され、それに対抗するワクチンや抗生物質が生み出されることで人類の生存率は大幅に伸びることともなりました。
フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と述べた「ツァラトゥストラ」を書いたのが1885年ころのことです。
これはいろいろな意味を含む言葉ですけれど、人間界において、「数値で実証性があるもの」、すなわち「科学」が一番大事な価値として働くようになった時代の象徴としてよく取り上げられます。

ja.wikipedia.org


それまで、人間界は「世界には理解しがたい大きな側面がある」、すなわち「神」と呼ばれる領域が「存在する」ということを前提としてきました。
人間は非常に長らく「神」を信じて怖れ、敬ってきたのでしたが、「神が死んだ」世界では、「数字」「数量」がそれにとって代わり、数字につながるメカニカルなシステムにより世界が説明されることになります。
そして、いつの間にか、「数値で実証性を持たないものは、存在しない」という方向性へとそれは変貌していきました。
現代を支配する「科学」というものは、世界はあらゆるものが即物的で、科学的な説明が可能である、とします。
人間の感情や気持ちといったものも、脳内の化学物質の分泌量の問題として説明されます。
数字で世界を説明するのですから、そこでは数字が良ければすべて善ともなります。
教育も数字ですべてが評価されます。
個人の知的能力はIQで評価されますが、これもまた数字です。
その先の一般社会も、仕事だろうがなんだろうが数字だけで物事の良し悪しの評価が決められます。
政治でも多数決で数字が多いものが権力を握ります。
それまでの神に変わり、数字が「新たなる神」となったのです。


数量価値の世界の問題点

数値により一切を説明し、評価する現代。ニーチェはあるいはこうした世界の到来を前に、別な形の価値を求めていたのかもしれません。

数値により一切を説明し、評価する現代。ニーチェはあるいはこうした世界の到来を前に、別な形の価値を求めていたのかもしれません。

現代日本を考えると、ある意味、「神が死んだ」状況というのはけっこう徹底しているような気がします。
日本の場合は、学校における価値は「偏差値」、社会人としての価値は「年収」、「資産」という「数字」に置き換えられ、マスコミ含めて徹底してこの数字の価値観で物事をあげつらいます。
数字で説明されるもの以外は、無価値であるかのような物言いを、有名人だの芸能人だのといった人々が知ったような顔をしてペラペラ話します。
ネットポータルなどでニュース記事を見れば、そんな記事ばかりです。
アクセス数や書き込みなどの分析で「後出しジャンケン」でばかりモノをいう人も増えました。
自分の見解というより、人気取りでモノを言う人が増えると、ああ言ってたのが急にこう言ってみたり、また戻ってみたり、一貫性など何もなく、結局はこの人は言いたいこと自体がないんではないか?と思われるようなコメンテーターだらけです。
こうした社会というのは、ある意味、数字主義の結果として出てくるものです。
問題は、こうした数字主義というのは、一方ではそれに対応できない、大量の人間を生み出してきています。
不登校の子供が異常に増えました。
易者が住む田舎の町の中学校は、現在、一学年が一クラスしかなく、30人前後の生徒しかいません。
数年前、近所の幼馴染の娘が不登校になり、ガッコに行っていないということで少し関わったことがあるのですが、なんと30人ほどのクラスで、不登校の子が10人近くいるというのです。
これは、大変なことです。
でも、これは田舎の中学校に限った話ではありません。
易者の叔父が、浦和で60年近く学習塾をいとなんでいるのですが、以前は夕方から子供たちが来て、勉強をしていく普通の補習塾でした。
近年、この塾は不登校児の駆け込み寺のようになっており、朝から学校に行かない子供たちがやってきます。
多い時は平日の昼間から10人以上の不登校の小中学生で賑わっています。
これには易者はびっくりしました。

膨大な数の不登校児童。数値価値観の見直しが叫ばれて久しいですが、状況は改善するどころか年々深刻になっているような気がします。

膨大な数の不登校児童。数値価値観の見直しが叫ばれて久しいですが、状況は改善するどころか年々深刻になっているような気がします。


最新(2023年10月現在)の文科省の統計では、小中学校の不登校者数は、なんと299,048人(前年度244,940人)というのですから、これは異常な数字でしょう。
しかも子供の数が減っているというのに不登校の子供がどんどん増えています。
不登校だけで済まない話は、子供の自殺件数です。
2022年の小中学生と高校生の自殺件数は、512人となり、過去最多だといいます。
ただでさえ少子化で人口減少が加速している日本ですが、これは非常に多くの子供が現在、学校に代表される数字的な価値観にすでに適応できていないばかりか、未来に希望を抱くことができない状況を意味していると思います。
多くの子供が未来に希望を持てないとするならば、大人になっても結婚して子供が欲しいと思うでしょうか?
人口など増えるわけもありません。
要因は多岐にわたるように見えますが、最大の原因は、数字の信仰ですべてを結論付けるという「神が死んだ」世界の価値観というものが、ある意味もっともマイナスに影響しているのが日本のような気がしてならないのは易者だけでしょうか。

焼鳥屋でスカウトされて営業の世界へ、そして台湾に行くことに

いきなり脱線していますので、話を易者の履歴書に戻します。
ある意味、易者自身も二十代のことを考えるに、こうした現代日本社会の規格からは大きく逸脱してしまっていた、と言えるかもしれません。
それにより、一種の不登校ならぬ「社会不適合者」になっていた易者が、「自然の流れの中に自分を任せてみよう」と思うようになった時に、焼鳥屋でスカウトされて足を踏み入れたのは、まさに「神が死んだ」、数字を徹底的に求められるような営業の世界でした。

自然な流れに身を任せた結果として、シビアなビジネスの世界に身を置くことになりました。

自然な流れに身を任せた結果として、シビアなビジネスの世界に身を置くことになりました。

まだ駆け出しのベンチャー企業だったため、商品を営業していくにも私を入れて4人しかいないようなところで、売り上げを拡張するためにしのぎを削る世界に足を踏み入れることになったのです。
朝から晩まで駆けずり回り、全国を飛び回るような生活が待っていました。
休みなどはなく、365日、24時間営業のような生活になりました。
しかし、不平は言いませんでした。
易経道教でいうところの「中庸」として流れに身を任せてみよう、と思った結果として出てきた状況でしたから、そうなるだろうなあ、と最初から分かったうえで足を踏み入れたということもありますし、また自然な流れでこういう状況になっているわけですから、今はこうした状況に身を置くことで自分を鍛えねばならない時期なのだろうから、しかたがないな、という納得があったからです。
でも、明らかに今風に言えば、とてつもなくブラックな労働環境で、別段、給与がすごくいいわけでもなく、ああいう環境で長くやれる人は少ないと思いますし、決しておすすめできるものではありませんが。
その会社の社長は、典型的に数字資本主義の低レベルな自己啓発本セミナーの影響を受けているような浅薄な人物で、右肩上がりを続けてやがては天下統一したいような人でした。
しばらく頑張ったら、会社の売り上げは20倍くらいに跳ね上がり、従業員数は数十人に増え、全国に商品は流通していくようになりました。
社長さんは、世界征服の妄想が出始め、海外にまで進出するというアホらしい計画を立てて、台湾にまで会社を作ると言い出しました。
そして、自然な流れに身を任せ、文句を言わずにやっていた私に白羽の矢が当たり、私が行かされることになってしまったのです。


神がまだ生きている?世界の衝撃

この話は、別に私の仕事の体験を書くものではありません。
私が、予期もせず赴任することになった台湾で、なにに一番驚いたか、ということが書きたいのです。
まずは、台湾の街中では、民家の玄関口に、鉄でできた非常に使い古した焼却炉がどこの家にもありました。
当初は、これは家庭内の可燃ごみを燃やすための簡易焼却炉なのかな?と思っていたわけですが、実は焼却炉ではあるのだけれども、これは宗教行事で、神に紙でできているお金を燃やして捧げるための焼却炉なのです。

道教寺院の、神に神のお金を燃やしてささげる焼却炉。各家庭にも小さな焼却炉があります。ゴミを燃やすものではなく、道教の宗教儀式には欠かせないものです。

道教寺院の、宗教目的の焼却炉。「宗教ショップ」(というようなものが、台湾にはどの町にもあります)で売られている紙でできたお金を燃やして神にささげる。各家庭にも鉄でできていて使い古された小さな焼却炉があります。ゴミを燃やすものではなく、道教の宗教儀式には欠かせないものです。


間もなく実際に、この炉を使っている光景を目にする機会に恵まれましたが、中華世界では農歴(太陰暦)に基づいて宗教行事運営が今も行われており、節目ごとに人々は家の軒先でお供え物をテーブルの上に並べて長い長い線香をつきたて、その前で紙のお金を家庭用の簡易宗教焼却炉に入れて燃やして祈りを捧げます。
街中にはこうした宗教行事で使う道具や飾りや紙でできたお金を販売する店がどの町でもあり、人々はごく普通に、「拝拝(バイバイ=神へのお祈り)をしないと、鬼神に祟られて良くないことになる」と口にします。
日本でも、初詣とか節句のお祭りがあるときには、人々は神社もうでをしたり、神輿を担いだりしますし、春分秋分やお盆には墓参りをしたりする風習は今もまだ残っています。

日本でも節句や宗教行事はまだありますが、限りなくイベントあるいは小売業のセールの一環のようで、宗教的な意味合いは形骸化されている気がします。

日本でも節句や宗教行事はまだありますが、限りなくイベントあるいは小売業のセールの一環ちなっていて、宗教的な意味合いは形骸化されている気がします。

 

しかし、日本人の場合は、それを宗教的行為として行っているというよりも、多分にイベントの一環として行っていて、内容的には形骸化しています。
実際、節句などの行事参加の意味合いは年々薄れ果てていますから、スーパーなどの売り出しの口実に過ぎなくなっています。
これは、宗教心そのものがなくなってきていることとも相関します。
現代日本では仏壇のない家も多いですし、たとえば神社にお参りするにしろ、ほとんどの人はそれでご利益があるなどとはマジメには考えていないのではないでしょうか。

一方で台湾の場合は、街中のいたるところに「寺廟(ツミャオ)」と呼ばれる道教寺院はあって、そこは周辺の住人の共同管理で運営されていて、ほぼ常に大きな香炉に長い線香が燃やされ、街中のどこを歩いても線香の匂いが漂ってきます。

台湾の道教寺院は、いまだに重要な信仰の対象です。どんな小さな道教寺院でも一日中、参拝者のともす線香の香りが途切れることはありません。

台湾の道教寺院は、いまだに重要な信仰の対象です。どんな小さな道教寺院でも一日中、参拝者のともす線香の香りが途切れることはありません。

 

「拝拝(バイバイ=神へのお祈り)をしないと、鬼神に祟られて良くないことになる」というのが、彼らの多くが本当にそう思って言っているということに気づくにはそう時間はかかりませんでした。
文化大革命で宗教を否定した中国本土よりも台湾や香港はいにしえの宗教が根強く残っている、という話は聞いたことがありましたが、多くの人間が現代生活を普通に送りつつも、神の存在をかなりマジメに信じている社会というのは、日本人の私からしてみたら、衝撃的な体験でした。
そしてふと気づいたことに、道教系「寺廟」には必ずや、私が易経占いの研究をして慣れ親しんだ、あの「太極マーク」が描かれていました。


道教寺院の占いで易に再会

さて、台湾で仕事をしていた時に通訳等で手伝ってくれた女性と私は交際するようになり、やがて彼女と結婚し、娘を授かることになるのですが、彼女の実家というのは台湾南部の「福佬(フウラオ)」と呼ばれる古い福建系漢人の一族で、近くの道教寺院に通っている家でした。

道教寺院には、必ず太極マークがあります。道教は易経を根本経典の一つとしているのです。

道教寺院には、必ず太極マークがあります。道教易経を根本経典の一つとしているのです。

この寺院の道士である住職は、特殊な能力を持っていて、「占いができる」ということで有名な方なのですが、妻と結婚する前後から私もその寺院に連れていかれ、その占いというものをして観てもらう機会に恵まれました。
ここでの占いのやり方は何通りもあって、「おみくじ」形式のやり方と、「米占い」という形式のやり方が主に行われています。
「おみくじ」の場合、箱の中に入れられた棒を小さな穴から振って一本出します。
これは日本でもある形式で、棒の先に番号が書かれていて、その番号の引き出しの中からおみくじを取り出す、というものなのですが、この寺院では出た棒に対して「擲筊(ジージャオ)」と呼ばれる貝を模した木片二つを床に放るのです。

ja.wikipedia.org


「表」が六回続かなければ、永遠にこれを繰り返します。
そして表六回が出たら、初めてその番号の引き出しからおみくじを出してもらうのですが、・・・この結果については、基本的に易経の卦辞や爻辞を用いたものが書かれていて、それを住職に手渡すと、彼が占い手が問うている件についていろいろとお話ししてくれます。
「米占い」については、ここの住職のオリジナルのもののようで、神前に置かれた米粒を、ランダムにつまんで神前の台の上に落とします。
これを三回、台の上で行っていきます。

この道教寺院の「米占い」は、住職オリジナルのもの。三か所に置いた米の状況から、遺伝子のノドンコード式に卦を導き出すのが基本のようですが、住職自身の能力とも連動しているもののようです。

この道教寺院の「米占い」は、住職オリジナルのもの。三か所に置いた米の状況から、遺伝子のノドンコード式に卦を導き出すのが基本のようですが、住職自身の能力とも連動しているもののようです。

 

住職自らがそれを見て判断を行うのですが、やはり出てくる結果は易の64卦から導き出されてきます。
驚くべきことは、この住職は、私が話してもいないこと、妻すら知らないようなことまで、米占いでもおみくじでもズバズバ言い当てるのです。
ある時、私は、「どうして、あなたは話してもいないのに私の幼少期のことや実家のことが分かるのか?」と訊いてみたことがあります。
彼は、「神々が教えてくれる。浮かぶのだよ。米をあなたがつまんで三か所に置く。その出方を見ていると、卦も分かるのだが、同時に、一瞬で神々があなたの昔の姿を垣間見せて私に教えてくれるのだ。時にはあなたと話した晩の夢の中で、あなたの幼少時代に行ってくることもある。それは、私が行こうとしなくても、神々がそこに連れて行ってくれるのだよ」。

道士である超能力(?)住職が、「神が教えてくれる」と表現することは、易者自身の夢の未来予知と非常に似通ったものを感じさせられます。集合無意識とのアクセスは、未来も過去も関係ないものなのかもしれません。

道士である超能力(?)住職が、「神が教えてくれる」と表現することは、易者自身の夢の未来予知と非常に似通ったものを感じさせられます。集合無意識とのアクセスは、未来も過去も関係ないものなのかもしれません。

私には、住職の言うことが、自分の夢での未来予知と重なって感じられました。
住職が予見する未来予測や見通しは、非常に的確なもので、少なくとも私自身についてみれば、ほぼ100%当たっている、といってよいと思います。
この方は、私には、夢の中の予知のような能力と、易の占いが道教の神々のもとで融合した人物のように感じられました。


道教は特異?仏教やキリスト教の方が特異?

ユング博士は、宗教を無意識領域の表現として取り扱った人です。
彼の場合は、父親が牧師だったこともあり、その研究対象は主にキリスト教ユダヤ教、また錬金術といったものが主でした。
しかし、宗教というものが、基本は不可知論で、現実世界に生きる私たち人間が通常は知りえない世界が「ある」ということを前提としていることは、世界中どの宗教でも共通しています。
不可知な領域のことを私たちは「神」と呼んだり、「涅槃」「如来」と表現したりするわけですが、ユング的な表現をするならばこれらはある意味、すべてが「集合無意識領域」についての表現であると言えます。

無意識領域とのコンタクトは、すべての宗教において、重要な役割を果たしているようにも思われます。

集合無意識領域とのコンタクトは、すべての宗教において、重要な役割を果たしているようにも思われます。

そしてどの宗教も「無意識世界とのコンタクト」をその重大な目的の一つとしているように思われます。
仏教はこの点では比較的ダイレクトで、禅宗でなくとも座禅や瞑想といったことを通じて集合無意識領域と直接アクセスすることをかなり重視していますが、キリスト教でも「啓示」と呼ばれることは、ある種の集合無意識界とのアクセスに他なりません。
聖書は、私たちは新約聖書福音書に目をとらわれがちですが、膨大な聖書のうちの多くを占める旧約聖書預言者たちにかかわる記述は、実は一種の霊界通信とでもいったほうがよいような、現実とは異なる世界とのアクセスから垣間見たイメージに満ちています。

易経が、無意識世界とのコンタクトツールであるとしたら?このような手段が付随する宗教というのは、ある意味洗練されているともとれるかもしれません。

易経が、無意識世界とのコンタクトツールであるとしたら?このような手段が付随するという点で、道教は非常にユニークです。システムとして洗練されているとも言えるかもしれません。

道教の場合、他の宗教と比べて、そもそも易というかなり完成された「無意識領域とのアクセス手段」をその根本経典として今も実際に用いている点において、ユニークで特異な宗教であると言えます。
いや?特異というわけではないかもしれません。
中華世界の人口を考えたら、中華系と言われる人々は人類の約四分の一を占めるわけで、すべてが道教の信者ではないにせよ、そのバックボーンとなっている彼らの宗教観というものは、むしろ人類全体からしたら「主流」なのかもしれず、あちら側から見たら私たち日本人や欧米人の宗教観や、数字や数値を神に置き換えた社会構造の方が特異なのかもしれません。
集合無意識領域の取り扱いについて易というシステムとして完成されたツールを持っている、という点において道教は、占いという形で集合無意識と接触することを身近なものにしているようにも思われます。

これが、この世界の人々の中では、神がいまだに生きている理由なのかもしれません。

無意識構造の表現としての道教寺院

道教寺院の構造は、明らかに人間の無意識世界の構造を表現したもののように思えます。
道教寺院に一歩足を踏み入れますと、まずは強烈な線香の香りと煙の中で、薄暗がりに無数の神々の像がすすけて真っ黒い姿で現れてきます。
基本的に、三体とか五体が一列に並びつつ、ひな人形のように段を作り神々が配置されます。
ちなみに、私がよく行く道教寺院では、その主神は「呉府千歳」といい、福建省に由来する古い五体の神々ですが、この神は、なんと元々は赤痢マラリアコレラなど疫病の病原菌やウイルスだというのです。
彼らは免疫能力の強い人間を取捨選択することで人間の進化に関わり、さらには外敵から人々を守護している、と考えられているというのには、非常に驚きました。
でも、「呉府千歳」の周りには他にも無数の神々が配置されており、関羽もいれば、仏教の阿弥陀如来もいれば、媽祖(まそ=福建などの沿岸部で信仰が根強い女神)もいて、なんだかごちゃまぜです。

道教寺院の内部。由来が異なる様々な神々の像が、所狭しと安置されています。子供が内部で遊んでも、咎められることもありません。

道教寺院の内部。由来が異なる様々な神々の像が、所狭しと安置されています。子供が内部で遊んでも、咎められることもありません。

これは、中華世界というものが、次から次へと多くの民族が混交することで成り立ってきたことと関係があるでしょう。
そのたびごとに、異民族の宗教神であったものが包摂されて神々の数が増殖していったのだと考えられます。
異民族や異教の神々を排除するのではなく、飲み込んでいくことで中華民族道教も成り立ってきています。
これは、信仰対象を単純化する傾向がある日本人や、一神教を信仰するキリスト教世界やユダヤ教イスラム教世界の人間にとっては実に驚くべき宗教観だと思います。
聖戦(ジハード)といった宗教的攻撃性とはそもそも異なる世界観です。
道教と近いと思われるのはヒンズー教ですが、ヒンズー教よりも混交性が未だに継続しているという点で、道教は今もまだ増幅中といっていいのかもしれません。
こうした多神教的な宗教観は、私たちの無意識領域には、多数の「原型」と呼ばれる無意識のエネルギーの形が存在するというユングの「原型論」仮説とも極めて近い構造をしています。

私はさらに、この道教寺院の「階層性」に強い興味関心を覚えました。
さらに上の階があるのです。
上階にいくと、今度は黄帝とか神農とか、次第に抽象化された漢民族の祖先神と思しきものに変化し、一階に見られた「ごちゃまぜ」スタイルは整然と整理されていき、むしろ日本の仏教寺院のようなコンパクトでシンプルな、あるいは曼荼羅を思わせる様相に変化していきます。

道教寺院の構造は、基本的には重層構造です。これは無意識世界の表現ともとらえることができると思われます。

道教寺院の構造は、基本的には重層構造です。これは無意識世界の表現ともとらえることができると思われます。

この上階をも、すべて合わせたものが、彼らが「神」と呼ぶものです。
一階から、上階へ行くにつれての変化は、無意識の階層を表現しているのかもしれません。
一階は、上述のようにわりと現実世界ともかかわりのあるようなイメージです。
台湾では比較的最近の実在の人物が神々の中に加えられている場合すらあります。
台南の農地設計を指導した八田与一や、日本統治時代の航空隊長が加えられていることもあります。
関羽とか、かまどの神などもいるように、神々と言ってもどこか人間的で、身近なところにいる霊魂のような印象を受けます。
上の階に行くほど、こうした人格的な要素は消え、人間離れした、「機能」とか「原理」といったものの象徴に姿が変わっていきます。
これはまるで、無意識の階層は、意識に近い領域から始まり、そこから深いところへとさかのぼっていくと、「原理」のようなものに純化されていく、ということを物語っているかのようです。

妻の一族の道教寺院では、一階から四階まであって、一階は身近な存在で満ちているのが、上へ上がるほど抽象的で、永遠性を表現する不可解な表現となっていきます。

こうした構造性は、キリスト教や仏教とは異なる原始性と土着性を色濃く残しているとともに、意識から無意識、そして集合無意識へと向かう私たちの精神世界の深度の段階を表しているようでもあり、私はユング博士の論文を読んだとき以上に無意識領域というものの構造を直接的に教えられたような、「あっ!」と思わざるを得ない強い衝撃を覚えました。


無意識とのアクセス=占い

人類は、無意識世界あるいは神々から得た情報を行動に反映させて長い年月生きてきました。むしろそれを否定した時代というのは、まだたかだか200年程度に過ぎないのです。

人類は、無意識世界あるいは神々から得た「情報」を行動に反映させて長い年月生きてきました。むしろそれを否定した時代というのは、まだたかだか200年程度に過ぎないのです。

この道教寺院も、太極マークとその周りに64卦の易経記号が、石に刻まれて壁に埋め込まれていました。
住職が作成した占いは、彼自身の特殊な能力もあるにせよ、基本は易経を母体としています。
そして、ここでは占いという「神々=集合無意識とのアクセス」を求めて住職を訪ねる人は後を絶ちません。
人々は敬虔な宗教的行為として占い=神々あるいは集合無意識領域とのアクセスを真剣に求めてやってきます。
具体的に事業を起こそうと考える人や、不動産投資を考えている人などが、その見通しを神々に尋ねるために占いを行っては、住職からシニカルに一刀両断でダメ出しされているような光景が日常展開されます。
住職はしかし、占いの要請に応える日と応えない日がありますし、占いを行う人と行わない人がいます。
理由は、神々とのアクセスは行えない日もあるということ(理由はわかりません。彼自身の体調もあるかもしれないし、なんらか天体の運行上のことも関係ありそうです)と、真剣に話を聞く耳を持たない人には、神々からの声を届けても無意味だから、と言います。
「徹底した宗教的行為としての占いを現実生活に反映させる」という点が、日本の占いとはまったく異なっています。
それにしても、無意識とのアクセス手段としてのこうした占いが、現代においても重要な意味を持っているということは、最初に述べた現代社会を覆う「数値主義」や「科学」が排除してしまった領域が、今も実際の日常世界の中に生き残っているわけです。

私は、幼少期から自分の夢による能力が、「頭がおかしいからではないか」と思ってきたのですが、易やユング心理学以上に、こうした道教寺院での体験は、自分がおかしいわけではなく、そもそも人間というものは膨大な無意識領域とのボーダーに存在するものなのだということを、確信させてくれた、非常に大きな体験でした。

そして、易というものの個人研究は、これまでの段階から一歩前進したものとなっていきました。
最初にお話ししたように、現実世界においては、私は科学的に生きているのは昔も今も同じです。
営業の内容は数値的に分析しますし、表計算その他から徹底的に数値計算して商品の開発は進めます。
しかるに、未来に関することはデータだけで判断などできません。
たとえば、データや数値でいえばいい見通しになると思われたとしても、「なにか、気乗りしない」「どうも引っかかって進める気になれない」というような「予感」がある時というのは、それが自分自身の怠惰ではない場合、数値ではないところで、なにかを感じている場合も多いのです。
往々にして、そういう計画や予定は、不測の要素で邪魔が入ったり、トラブルが起こったりして進まない、あるいは状況が大きく変化して大失敗につながる、というようなことはあるものです。
私は思うのですが、商売であろうと人間関係であろうと、生きていく上では私たちはこうした「予感」というものは大切にするべきではないでしょうか。
おそらくですが、数値世界で成功している人でも、多くの人は自分の「予感」は大切にしているのではないかと私は考えます。

実は、予感や直観などは、無意識的に感じている未来予知の一種なのかもしれません。占いも含めてそうしたものを数値データとともに大切にする生き方は、現代生活と矛盾するものでは決してないのだと思われます。

実は、予感や直観などは、無意識的に感じている未来予知の一種なのかもしれません。占いも含めてそうしたものを数値データとともに大切にする生き方は、現代生活と矛盾するものでは決してないのだと思われます。

 

この「予感」を、一歩進めて客観的にとらえるための手段として、易は非常に有効な判断材料ともなりえるということを私は道教寺院から学んだのです。

「神が死んだ」世界こそが現代のスタンダードだと私たち日本人の多くは考えています。
しかし、少し海を渡れば、数値も重視したうえで、神々の存在を当たり前のこととして受け入れ、科学では出てこない領域からの見解を占いによって確認し、普通にスマホを使いパソコンを使い、ビジネスも展開している世界が存在しています。
つまり、私たちは科学的でありつつ、「完全にはわからない領域=神々の世界」をも受け入れて生きることはできるし、「科学や数値」と「神々の領域」というのは、そもそも分断されてしまう必要などないのではないでしょうか。

さて、私が道教や易に非常に強い関心を持っていること、そして私自身では無意識領域ととらえている道教の神々の領域についても決して冷やかしなどではなく真剣に考えていることを、道教寺院の住職はすぐに見抜いたようでした。
そして、次第に私が行くと「日本人、来たか」といって笑い、老子の道徳経の話など、お茶を飲みながらしてくれるようになりました。
これは、妻や一族の長の叔母が言うには、この住職にしては非常に珍しいことなのだそうです。
別に、「読んでみなさい」などとは言わないのです。
しかし、私には、語らずとも、「参考文献で読んでごらん。あなたは易については日本人にしてはよく知っている。神々の世界を否定していないことも私にはわかる。だが、もっと深く知ることができるよ」と言ってくれているのが、よくわかったのです。

そこで、老子荘子などに手を付けてみることになったのでしたが・・・だいぶ長くなってきていますから、続きはまたの機会にします。