易者のブログ

みんなの易経占い!

易者のブログ プロローグ!

本日から、連載を開始いたします。

易経占い」に関する、個人の見解を書いてみたいと思います。

はじめに

天と地。陽と陰。易経は二元論の二進法で描かれる東洋的な世界観の集大成です。

さて、本日より「易者のブログ」ということで連載を始めてみたいと思います。

筆者は、仕事のかたわら、「易者(えきしゃ)」をやっております。

まあ占い師の一種ではあるんですが、筆者が使用するのは、「易経」といって、中国の四書五経っていわれる古典の一つ、「易経」による占いです。

筮竹(ぜいちく)っていう、竹ひごを使って占うものです。

時代劇なんかで、路頭に易者さんがいる、っていうシーンが昔はよくありました。

これは、この四書五経の一つ、「易経」を使って、占いをしている儒学の先生なんですね。

江戸時代には、儒学の先生が、普段は儒学を通じて読み書きなどを教え、時には易を使って占いもやる、っていうことがよくあったみたいです。

 

私は、学生時代以来、長年にわたって、この易経を研究してきた者です。

どこかの占いの団体とか宗教団体に所属しているわけではなく、まったくの個人的関心による趣味の領域ではあるんですが、四十歳を過ぎたころからは頼まれて人の占いもするようになりました。

気が付けば、易の研究を始めてから今年(2023年)でなんと30年となることに気がつきました・・・。

むろん、社会人として仕事をするかたわらでやってきたんで、こんな研究をしてきていることを、周りの人はまったく知りません。

私が長年、実業の面で従事してきたのは食品開発と流通業界への拡販ですんで、占いなどとはまったくなんの脈絡もない、シビアでビジネスライクな世界に生きてきました。

そんな私が「占いができる」などと言えば、みんなに「ええっ?」と驚かれます。

それはそのはずです。

私は普段、ビジネスはビジネスライクにマジメにやっているんであって、そんなことを研究しているそぶりは、いっさい他人に見せたことがありません。

家族も、妻は私が「趣味」で易経には関心があって、いろいろいじっているのは知っていますが、実はかなりマジメに研究をしているなどとは思っていないと思います。

矛盾するようですが、私は、基本的には合理主義で科学的に生きている人間であって、迷信や神頼みといったことには否定的です。

実家は数百年続く浄土真宗大谷派の檀家ですけど、私自身は特定の宗教を信仰しているわけではなく、無宗教に近いと思います。

ゲン担ぎのようなことも一切しませんし、科学的に物事を考える人間です。

というよりも、科学的な考え方でなければ、たいていのことは納得はしません。

そんな私が、なぜ、このような占いに関心をもって長年研究などしてきているのか?については、またじっくり機会をもうけてお話をしていきたいと思っています。

 

が、とりあえず今回、五十歳を過ぎ、長年、断続的に私が研究してきた易の世界というものを、一般公開してみようかと思ったのですね。

ふとしたきっかけで易の研究を始めて、ちょうど今年で30年になります。

この30年のあいだ、いろいろとわかってきたこともあるし、自分が考えてきたこともいろいろあるわけですけれど、五十歳を過ぎたということは、人生はすでにピークを越えていて、いつ、なにが起こるかもしれません。

自分の知っていること、体験してきていることを、このへんでまとめてお伝えすることで、記録として残しておきたい、と考えるわけです。

ここのところ、そういう思いから、書き物をしたり、人に教えたりといったことをよくやるようになってきています。

ある種の老化の一端ですね。

孔子先生は言っています。
「五十にして天命を知る」と。

最近、だんだん若かったころのように、映画を観たり、本を読んだりとか、だんだんしなくなってきているんですが、体力が衰えてきたり、老眼が入ってきたりしていることもあります。

しかし、それ以上に、これまで貪欲にインプットしてきたものが、ある一定の段階に達して、自分の中で多くの仮説や確信を作り上げてきていて、今度はそれをアウトプットする時期に入ってきているんじゃないのかな?

って、感じることがよくあるんです。

若いうちにしかできないことはいろいろありますけれども、しかし歳をとってから、長年の経験でいろいろと見えてこなければでなければできないこともまたいろいろあるのではないかなあ?などと最近はよく感じます。

なので、易経に関する私の個人的関心にもとづいた研究も、このへんでアウトプットしておく時期ではないのかな?と強く感じるわけです。

でも、それなりにいろいろやることもある身としましては、一気にまとめて本のようなものにするにはなかなか時間も制限されますし、それならば現代では「ブログ」という形があるので、そのスタイルでやってみようかなあ、と思いました。

どこまで表現していけるかはわかりませんが、これまで人生相談で占いを行った方の中から、占いの内容を匿名掲載することに快くご承諾くださった方たちもおられますことから、実際の「易占い人生相談」のやりとりを揚げながら、ブログ連載をやっていきたいと考えています。

私と易経について

筮竹と算木。算木は、仕事で出会った、大阪のある老貴婦人よりいただいたものです。気功や易経などにも通じておられる方で、お客様としても大変お世話になり、多くのことを教わりました。今も大切に使わせていただいております。

最初に触れましたが、このブログで取り扱う「易経」というのは、中国の古典作品です。

周易とも呼ばれますが、その起源は古く、少なくとも周(しゅう)という中華世界の古代王朝が成立した時期(BC.1000年ころ)には、すでにその原型となるものはあったようです。

起源はまったくわかりません。

伝説上では、創始者は神話上の伏羲(ふっき)と呼ばれる上半身は人間、下半身は蛇のテリアントロプスであり、これを文書化したのが周の文王(ぶんのう)だといいますが、全く定かではありません。

元々が甲骨占いからきている、などという説もありますが、今のところその起源については謎に包まれています。

しかし、殷(いん)の末期から周の時代には、すでに64卦の現在の形で存在していたことは確実で、内容をよくよく見ていくと構造的な完成度は大変高いもので、不気味でもあります。

四書五経と呼ばれる中国古典の中では、最古の部類に属していることは確実なのですが、その構成や完成度の高さは古代に当てはめるのがためらわれるほどです。

またその影響力はことのほか大きくて、道教儒教も、易経を根本経典の一つとしています。

 

しかし、あまり知られていないのですが、これが実は・・・「占い」のテキストなのです。

古代世界では、占いというのは人間には重要なものでありましたから、世界中で占いが行われていた形跡はあるのですけれど、易経は、そうした中でも最古の「占い」に関する文献です。

その占いとしてのシステムも、たいへん完成された形をもっています。

筆者が、その存在と内容を知ったのは、恥ずかしながら大学生の頃で、それも経済史の授業で「たまたま」でした。

もちろん、高校の世界史では、「四書五経は、なにを指すか述べよ」とかいった入試問題があるくらいですから名前だけは知っていました。

けれど、その内容なんてまったく想像だにしておりませんでした。

世界史を教えてる先生でも、出てくるものの内容を知ってるかどうかわからない、というのが日本の教育ですから、当たり前と言えば当たり前なのですけれど。

私は授業で知って関心をもってしまい、すぐさま市販の市販されている中国古典選の易経を書店で、筮竹(ぜいちく)になる竹ひごを模型店で買ってきて、余興のような、趣味のような感じで、自分でいろいろと占いをやり始めたんです。

・・・でも、最初はまったくもってチンプンカンプンでしたけれど。

それが最初のきっかけでした。

 

しかし運命とは奇妙なもので、私は自分を探して彷徨うような激動の二十代を送りました。

この過程で、心理学、宗教学、歴史学など、自分を探すために自分に当てはめて考える必要性に迫られました。

その過程で、易もまた私自身が自分を考えていくうえで大きな指針となりました。

そうするうちに私はまったく予想だにせず、台湾人の女性と国際結婚することになりました。

そして、妻の家族が出入りしている道教寺院に連れていかれて、実際に道教寺院に並ぶ神々の像の前で、道士の住職に易占いを受けたりするようになりました。

台湾では、あちこちに道教寺院があり、人々の日常生活の中で道教の神々は生き続けています。道教寺院「廟(ミャオ)」では、易占いもごく当たり前に行われています。

台湾では、現在でもこうした道教寺院において易は生き続けており、人々はその占いを自分の今後への重要な指針としている場合がけっこう多いのですね。

こうした実際の易占いの現場に遭遇した経験は、それまで趣味の一環であった私の易経占いへの認識を、180度転換させる衝撃的なものでした。

その後、道教寺院の住職にすすめられる文献をいろいろと読んで研究しました。
老子」とか「荘子」とかですね。

しかし、個人的には、一番、易経の東洋思想の理解に参考になったのは、王陽明の「伝習録」と、禅の公案の「臨済録」です。

こうした経緯を経て、最初の頃はまったく意味不明だった易経テキストの意味が、だんだんわかるようになっていきました。

これは、私が国際結婚で授かった娘の教育のため、自分でも現代台湾華語を習得したことも大きく関係していると思います。

易経は、古い漢語で書かれていますが、基本は中華言語で漢字で書かれていますから、中国語が分かると、解説を読む以上に意味のとらえ方はわかるものなんですね。

四十台に入ったころから、知り合いに人生相談を受けるかたわら、頼まれて易で占いもするようになりました。

占い方も、最初は筮竹でやっていたんですけども、道教寺院での体験から、占いたい人ご本人に、コインを投げてもらう「擲銭(てきせん)法」を採用するようになりました。

そんなこんなで、・・・気が付けば早いもので、研究を始めてから30年です。

易者としての「スタンス」

易は、陰と陽が六個重なって、一つの表象を表します。

みなさんは、「占い」っていうものを、どうお考えでしょうか?

一般的には、それは「余興」です。

たとえば、朝のテレビ番組ではよく、「今日の12星座占い」といったものが登場します。

「今日のラッキーは、おうし座、要注意はふたご座!」

とかで、「あー、俺、ふたご座だから、今日は最悪!」

などと一喜一憂するのが一般的な「占い」の感覚なのではないでしょうか?

たとえば、有名な観光地の神社に行き、「おみくじ」を引きます。

「小吉、そうか、そんなに運は悪くはないんだな?」

となにやら納得してほくそ笑む、というのも、一般的な占いですよね?

占いというのは、科学的にはなんの根拠もありません。


未来が、いいか悪いか?というのは、非常に主観的な問題ですし、それもテレビの「12星座占い」とか「おみくじ」といったものの場合、問答無用で「吉」「凶」はつけられてしまっていますから、良く出ようが、最悪だろうが、それは予言的に判断されてしまっていることです。

「凶ですよ!」と言われたところで、どうにもならないことなわけです。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦

という言葉通り、それはあいまいで、確証などないものです。

・・・だからといって、私はテレビの「12星座占い」だとか「おみくじ」といったものを否定するつもりもありません。

なぜなら、私たち人間は、原則として未来のことはわかりません。

それが気になるというのは、当たり前のことだと思いますし、また仮にそれが確証のない余興だとしても、「面白い」と感じるのは、それが私たちの誰もが持っている好奇心によるものです。

今日の吉凶を、確証なく予言される、断定される。

それが当たるか当たらないか、気にすることで一日というものをより意識することになり、刺激的に人生におけるある一日を過ごせます。

このこと自体は、面白いではないですか?

 

しかしですね、筆者は、

「元々本来は、占いって・・・こういう、予言的で断定的なものではないんじゃないかな?」

と考えています。

もしですね、占いの本来の目的というものが、単なる「吉凶」ではなくて、なんらかの現在の自分の状況を投影して、暗示するものだったら?

それにもとづいて、進むべき道を占い手が自分で自由意思をもって「考える」ためのものであるとしたら・・・?

と考えるわけなんです。

心理学者であるC.G.ユング博士は、シンクロニシティとの関連で易経についても多くの言及をされています。

実は、こういうことを科学とはギリギリの線で考えた人はいて、C.G.ユング博士も、心理学の立場から、「シンクロニシティ共時性」っていう言葉でこのことを説明しようとしています。

偶然、出会った人や、物事が、その後の人生に決定的な影響を与えることがあるとします。

それは、科学では「偶然」「たまたま」にすぎないのだけれども、

・・・実は、裏の必然性っていうやつがあるんではないだろうか?

あるとしたら、・・・それは、物理科学の枠組みを越えた、どこかで物事がつながりを実は持っているんではないのだろうか?

っていうのが、「シンクロニシティ共時性」といわれるユング博士の考え方です。

 

たとえば、「虫の知らせ」ってこと、昔からよく言いますよね?

夢で、長らく会ってない友人が出てきて、昔話を懐かしそうにした。
その数日後、その友人が亡くなったという知らせが来た・・・。
というようなことです。

これは、科学で見たら、たんなる「偶然」に過ぎません。

しかしですね、こうした話が、世界中でいつの時代でも見られる「普遍的」な経験としての現象なんだとしたら、・・・そこには、科学では証明手段がないけれども、人間には、そのような能力が実はあるのではないだろうか・・・?

と考えるのは、帰納法(複数の事実や事例から導き出される共通点をまとめ、共通点から分かる根拠をもとに結論を導き出す方法)としては、正しいモノの観方ではないのでしょうか。

同様に、筮竹(ぜいちく)をランダムに分ける作業、あるいはコイン三枚をランダムに布の上に放る作業で出てきた易経の表象である「卦(か)」や「爻(こう)」が示すことが、現在の自分の状況と克明に一致している、としたら、これもまた科学で言えば単なる「偶然」です。

しかし、限りなく何度も、そのようなことが起こるとしたら、・・・経験的な帰納法として考える場合、なんらかの自己の投影がそこに出てきているのではないだろうか?

そもそも、この伝統的な占い方には、なにか自己投影に導く、どこかへのアクセス方法が埋め込まれているのではないだろうか?

その脈絡を、現代科学では証明することは困難なのだけれども・・・。

これが、ユング博士が考える、シンクロニシティとしての「占い」なのではないかと筆者は思っています。

 

折を見て、またお話しようと思いますが、筆者は個人的に、自分に起こるこうしたシンクロニシティ現象に、実は幼少期から悩んできた人間です。

一方で私は普段は、誰よりも「科学的」に生きていて、商売でも「科学的根拠」がなければ商品開発でもいっさい採用はしない人間です。

でも、それだから逆に、科学的には「偶然」でしか片付けられないにしても、どう考えたって「奇妙なこと」、「不思議なこと」が人間世界にはあるということを、様々な場面で痛烈に感じてきました。

これは、私に限らず、科学的な思考が強い人ほど、案外、同じことを感じているのではないだろうか・・・?

と、内心は思っています。

でも、科学で言えば、それは「単なる偶然」、「単なる幸運」に過ぎません。

私は科学を否定する人間ではありませんから、占いも含めて、それが科学からすれば「偶然」としか言ってみようがない、ということも否定はしません。

けれども、経験の積み重ねから、私はそこに「帰納法」でしか言い表すことができない、「なにか」がある、と考えています。

それは、もしかすれば、現代の「科学」では、まだ説明をつけることができないだけなのかもしれません。

人間には、なにかを予感したり、出会いを結びつける奇妙な能力があるのではないか・・・?それが私の長年の疑問であり関心です。

そこで、このブログ執筆にあたって、筆者のスタンスですが、

私はあくまでも、「経験的な帰納法」から、ユング博士の提唱するような「シンクロニシティ」が、「存在する」、という仮説を持っていて、その考え方でこれを執筆します。

むろん、「科学的根拠」はこうした占いに関しては「まだ」ありませんから、そんなことにはちょっと付き合えないなあ、と思われる方もおられるのは当然のことです。

それもまた否定はしませんから、そうした方がこのブログを読まれなくても、それは当然と受け止めます。

しかし、私と同じように、実生活の中で未来の暗示や、運命的な出会いや、不思議な「縁」といったことを経験して、人間の持つ「可能性」というのか、「能力」にシンプルな畏敬の念を抱いていらっしゃる方は、意外と少なくはないのではないかとも思っております。

そういう方たちに向けて、あくまでも個人的な経験から書いていきたいと思っています。

「事実は小説よりも奇妙」

とは、言われますが、占いの実例紹介をはじめとして、人間は奇妙で不思議な存在です。

そういったことを、読者の皆さんと共有するブログにしたいと思っています。

読んでいただける方がいらっしゃるようでしたら、幸いです!